営業裏話

 きのうは午後から、専務イシバシと、このところこの欄にちょくちょく登場する営業の新人Oさんが連れ立って大学回りに出かけた。
 詳しいことは、本日出社してから聞けばいいわけだが、二人の珍道中ならぬ珍営業ぶりを早く知らせたかったのか、夜、イシバシから電話がかかってきた。概略まとめると、以下のようになる。
 いまは東大を退かれているらしいが、東大名誉教授でいらっしゃる先生の研究室に二人で入ったそうだ。あいさつした後、イシバシが先輩としていろいろ営業トークをしている間、Oさん、研究室内の書棚を眺めていた。これも営業の大事なポイントで、書棚をササッと眺めることで、かなりの情報が得られる。先生の説明を待つまでもなく、興味や関心の所在、研究の方向性みたいなものをうかがい知ることができるからだ。
 イシバシの営業トークが一段落ついた頃を見計らい、絶妙のタイミングでOさん、「書棚にダンテ関連の書籍が並んでいますね」と言ったそうだ。素晴らしい! なぜなら、なんてったって、ウチでは大部の『ダンテ神曲原典読解語源辞典』を出している。地獄篇、煉獄篇、天国篇とあり、一冊の本体価格が四万六千円と破格。しかし著者の福島先生がニ十年の歳月をかけて執筆した歴史的辞書なのだ。大江健三郎、柳瀬尚紀、中条省平の三人の碩学が絶賛し推薦文を寄せてくださった。
 東大名誉教授の先生、Oさんの言葉にピクリと反応したらしく、営業のイシバシ、それを見逃さなかった。間髪入れずに、「推薦文を三名の方からいただいておりまして、ひとりは、ノーベル賞を受賞した、あの有名な、えー、あの、ノーベル賞の、あのう…」と、大江健三郎の名前を大事な場面でド忘れしてしまったらしい。こういう時というのは、おかしなもので、焦れば焦るほど思い出せないものだ。そこで若いOさん、記憶力の衰えなどまったく感知せぬOさんが、「湯川秀樹!」と叫んだ。そう! ノーベル賞と言ったら湯川秀樹。日本人で初めてノーベル賞を受賞した人。早押しクイズ。ピンポ〜ン!! んなわけがない。
 その話をイシバシから電話で聞いて、大江健三郎の名前を忘れるイシバシもイシバシなら、ノーベル賞と聞いて、パブロフの犬じゃあるまいし、条件反射みたいに「湯川秀樹!」と言ったOさんもOさんだと思った。今はダンテの話、文学のことであって、物理学は関係ないじゃないの。ま、ここに、現代日本の教育における深い問題が象徴的に現れていると、わたしは見たね。Oさんの名誉のために言っとくと、彼女は名のある有名国立大学を出ている。また、日々、イシバシに就いて力をつけている。営業のパンフレットも自分で作れるようになった。商品知識もずいぶん増えたろう。そのOさんが大江健三郎の名前を忘れたとは考えにくい。ところが、ノーベル文学賞ではなくノーベル賞と聞いて、早押しクイズとばかりに「湯川秀樹!」が口をついて出てしまったのだろう。
 というようなことがあったそうだが、東大名誉教授のその先生、『ダンテ神曲原典読解語源辞典』をまとめて三冊、ご自身の研究費で購入してくれることを約束してくれたそうだから、それは本当によかった。