雨の中を歩きながら、時間のことばかり気にしていた。恩師から「おや、三浦君ではないか」と悠長に声を掛けられた。「いま急いでいますから…」と断わり別れたかったが、世話になっている先生でもあり、あまり素気無くするのは憚られ、傘を差しつつ並んで歩いていくと、分かれ道で先生は右へ行こうとする。「先生、それではここで失礼します」。すると先生は、「いや、そっちの道よりもこっちが近い」と言い、断固たる足取りで右の道へ歩を進める。仕方なく付いて行くと、先生は狭い小路に折れ、城壁のようなほとんど垂直の壁を革靴ですたすたと登っていく。トカゲでもあるまいに、どうしてそんなことが可能なのか、ぼくにはさっぱり分からない。たしかにこの壁を登ることができれば早道には違いない。ぼくは、夢のような気持ちで傘を差したまま壁に近づき、利き足の左足を掛けたが、現実には一歩も登れない。つるつると馬鹿にされているようなものだ。すると先生は、この世のものではなかったのだろうか。そういえば、雨で傘を差しているとはいうものの、先生のズボンの裾はちっとも濡れていなかった。ぼくは、もう一度さっきの分かれ道まで引き返し反対の道へすすみ、ほとんど小走りの状態で先を急いだ。課題として出された3冊は既に読んでいるけれど、レポート用紙二十枚は容易ではない。まだ一行も書いていない。それに今日は友達皆でハイキングに行くことになっている。雨だというのに…。だんだん気持ちがささくれ立ってくる。幹事のM君は真面目だから、とっととレポートを仕上げ、ハイキングの候補地も決めているだろう。ぼくは焦ってきて、自分を信じることができなくなっていた。
グラッと揺れてぼくは眼が覚めた。テレビを点けたら関東地方に震度3以上の地震が発生したと告げていた。動悸が激しくなっているのが分かる。さっき見た夢のせいなのか、はたまた地震のせいなのか。その時だ。「おや、いま着いたのかね」。先生は端座し、優しく微笑んでいる。城壁ではなく、マンションが立っている崖に吹き付けたコンクリートを攀じ登って、ここまでたどり着いたとしか考えられない。血の気が引く。これは夢だ! いつからか、また眠りにつき、夢から覚めた夢を見ていたのだろう。
お中元のシーズンで、このところ、冷たいものや甘いものや採れたてのものや百薬の長やをありがたくいただいている。
昨日、山形の工藤先生からラ・フランスが届いた。ラ・フランスとは西洋梨の一種で山形が特産。このあいだ幻の酒「十四代」をいただいたばっかりなのに今度はラ・フランスか。申し訳ない。でも、ありがたい。ここで気づくべきだった…。
アルバイトで来ている千葉修司に、ラ・フランスの一番美味しい食べ方を説明しながらダンボール箱を開けにかかった。ガムテープで頑丈に包装してあり、なかなか蓋が開かない。二人がかりでガムテープを剥がし、中からまだ熟していないラ・フランスが… と思いきや、さにあらず。紙袋。はん!? なぜに紙袋。おかしいではないか。そんな二重にも包装する必要があるだろうか。
ここに至って豁然と閃いた。「こ、こ、これはラ・フランスじゃない!」。微塵も疑っていなかったから、自分の愚かさに呆れ、腹から笑うしかなかった。隣りの隣りの会社まで聞こえるような爆発的な笑いがようやく落ちついた頃、総務イトウが冷ややかな目でわたしに言った。「ラ・フランスの季節じゃないでしょう今は。それに、ラ・フランスなら、ガムテープではなくホッチキスで蓋が止まっているはずです」。冷静な分析。おっしゃるとおり。
夏、お中元の季節、ラ・フランスと書いたラ・フランス発送用のダンボール、ラ・フランスは山形特産、工藤先生から前にいただいたことがある。というような情報がわたしの頭の中を経めぐり、一つところに収斂し、これは絶対ラ・フランスにちげぇねぇと思ってしまったのだ。げに、思い込みというのは恐ろしい。
ちなみに、ラ・フランス発送用のダンボールに入っていたのは、ラ・フランスではなく、『新井奥邃著作集』第10巻に収録を予定している墨跡の写真資料だった。
『イーリアス日記』の著者森山康介さん来社。『イーリアス』はホメロスが書いたとされる叙事詩で、森山さんはこれを一年かけてギリシャ語原典で読まれた。『イーリアス日記』はその読書記録である。
日々の暮しと神々が織り成す壮大な世界が丹念に記述され、現代に生きるわれわれの日常、時代が変わっても生死の境を越えられない人間の様が『イーリアス』を鏡として浮かび上がる稀有の日記だ。文章がまた簡潔でユーモアに満ちており、『イーリアス』の翻訳書と合わせて読むことで、これまで遠ざけてきた古典中の古典が味わいぶかく読めるようになる。そういう勇気を与えてくれる日記でもある。
森山さんは無人島に一冊持って行くなら『イーリアス』とおっしゃる。会社づとめをしながら、『イーリアス』を原語で読んでこられた。それがまず凄い。いろんな事務処理をして電話対応をして会議にも出席して書類に目を通し書類を作成し手紙を書いて今どきだからメールをチェックしインターネットで検索し、昼食をとり、また会議に出て事務処理をして電話対応をして書類に目を通し書類を作成し手紙を書いてメールをチェックしインターネットで検索して、ほんと身もこころも疲れているだろうに家に帰ってギリシャ語! 考えられない。凄い! ほんとうに凄い!
ぼくは語学がからっきしダメだった(今もダメ)から、外国語に精通した人をみるとそれだけで尊敬してしまう。しかも英語やフランス語やドイツ語や中国語ならともかく、ギリシャ語だというから恐れ入る。ところが、どんなこわそな人かと思いきや、森山さん、いたって気さく。きのうは『イーリアス日記』の出版を記念し、最近春風社御用達みたいな感のある小料理千成で、本にまつわる話をいろいろうかがい、わたしもしゃべった。楽しかったぁ。森山さんはもちろん無類の本好きだが、我も本好き、と改めて感じた。紙に文字が印刷されていなければ本ではない。あたりまえ。でもそれって大事。紙なんだよ紙。電子ブックじゃなく。見えてきたぞぉ〜。
『イーリアス』か。学生時代、岩波文庫で読んで途中で挫折したから、『イーリアス日記』を道しるべにもう一度挑戦してみようと思う。もちろん翻訳でだ。
営業のアルバイトで来ているMさんという大学四年生の女性がいる。専務イシバシから要諦を教わり、この頃は一人で外出するようになった。大学の先生に会って話を聞いてくる。企画を最後までまとめることは相当の経験を要するからまだ無理だし、そこまでは会社も要求していない。ところがMさん、なにがどう効を奏しているのかわからないが、会社に来るようになってほんの数ヶ月しか経っていないのに、出版につながるような話をいくつも持ってくる。
武家屋敷の大学時代の恩師に企画の話で会いに行く時その話題になった。すると武家屋敷が「人のこころを動かす才能があるのよ」と言下に言った。きっとそうなのだろう。技術についてマニュアル化すれば際限がないけれど、それをいくら精緻に重ねても人のこころを動かせるわけではない。営業というのはおそらく人のこころを動かせるか否かが勝負の分かれ目だろうし、それは技術とは違ったところにあるようだ。
そういえばMさん、面接を受けに来た時、人の話を聞くことが好きと言っていた。で、眼キラリ! なるほど!
暑い日がつづき頭も体もおかしくなりそう。本当は帽子を被ればいいのだろうが、少年と老人以外の男は帽子を被っていないので、ぼくだけ目立つわけにもいかないから、なるべく日陰をさがしてチョロチョロ歩いている。陰が一つもないさっぱりした道はつらい。
チョロチョロといえば、きのう、保土ヶ谷駅の上りホームで電車を待っていたら、焦点の合わぬ眼に何やら動くものが映った。ハッとして半歩しりぞき焦点を合わせると、トカゲ。トカゲが線路脇のコンクリートの穴から這い出してきてすぐ横の別の穴にもぐっていった。こいつも暑いらしい。
わたしと同じで帽子を被るわけにはいかない。トカゲが帽子を被ったらおかしい。変だ。食べ物なら、すぐそばにスーパーやハンバーガー屋やどこにでもある和食のチェーン店があるから困らないだろう。が、線路脇にできた穴では涼を取ることは難しい。時々這い出してきて、こっちの穴からあっちの穴に移動するとき、束の間、日陰の風に身をさらすぐらいが関の山だろう。
そのうち上り横須賀線の電車がホームに入ってきたから、トカゲが今どうしているのか見極めるわけにもゆかず、もはや想像するしかなかった。車内がクーラー利いている分、車外は熱風。それでなくても太陽にさらされた車体は触れないほど高温になっているだろう。ホームに電車が停まっているあいだ、トカゲは必死に身を潜め、電車が出ていったとなったら、涼を取るため、またチョロチョロと穴から這い出す…。お前もか。なんて。俄然親近感が湧いた。
帰宅後テレビを付けたら前川清がデビュー曲「長崎は今日も雨だった」を歌っていた。彼はむかし、内山田洋とクールファイブというグループのボーカルだった。前川のほかに、クールかどうかは知らないが、前川の後ろで5人がときどきアワワワ〜♪とかいって、口三味線みたいなことをしていた。前川があの独特の縦皺を眉間にこしらえ熱唱している後ろで、5人は割りと暢気そうに見えた。
それはともかく、あの頃の前川清はカッコ良かった。今のコミカルな彼からは想像できない。1969年。ぼくは12歳。当時の前川は、テレビに出ているというのに歌う以外は全くしゃべらなかった。司会者がマイクを向けてもしゃべらなかった。幼いわたしは幼いなりに、男というのはこうでなければならないと思った。男の中の男! わたしはどちらかというとお調子者でキャッキャと騒ぐほうだったから…。子供の浅知恵で前川清の真似をして次の日から一切口を利かないことにした。そうしたら「どうした。腹でも痛いか」と無理解な担任の先生が心配して声を掛けてくれた。男のダンディズムがこの先生には分からないのだと思った。前川清の真似は一日ももたなかった。無口を押し通すなんてとても無理。すると、無口な前川清がますますカッコ良く見えた。
その後、前川清の無口は本質的なものでなく、テレビ的なものだと知った。無口どころかひょうきんで、むしろよくしゃべる人だった。が、それはもっと後のこと。話を戻して1970年。氷が溶け出すごとくに前川清の重い口が少しずつ開かれるようになっても、あこがれがガラガラと音を立てて、というほどのことはなく、無口な前川が無口であろうがなかろうが次第に関心が薄れ、中学に入ったわたしは、好きな娘ができたり勉強させられたりで身辺にわかに忙しくなった。
1971年、前川は藤圭子と結婚。しかし、わたしにとってそんなことはもうどうでもよく、かつて、といっても二年前、あんなにあこがれていたのが嘘のようだった。そうなったのには理由がある。若さはもちろんだが、既に解散していたというのにビートルズの熱風がようやく秋田の田舎にも吹き始めていたから。ヘイ、ジュ〜♪ もはや日本の歌など聴く気になれなかった。
DVDまるまる2時間『ザ・マイルス・デイビス・ストーリー』を観た。
バックに流れる曲はほとんど知っているし、登場人物も、チャーリー・パーカー、ディジー・ガレスピーから始まり、クラーク・テリー、ジミー・コブ、シャーリー・ホーン、ハービー・ハンコック、ロン・カーター、トニー・ウィリアムス、デイブ・ホランド、ジャック・デジョネット、ジョー・ザヴィヌル、キース・ジャレット、チック・コリア、ジョン・マクラフリン、デイブ・リーブマン、マーカス・ミラーなど、往年の名プレイヤーから現役バリバリミュージシャンまで入れ代り立ち代り現れマイルスとの思い出を語り、飽きさせない。マイルスの物語なのにジャズの歴史をドカン! とまとめて見せられるようで楽しめた。
することなすことわがままなマイルスだったが、思い出を語る名うての演奏家たちの語り口から、彼らがそれを今も宝物のように大事にしていることがよく分かる。
マイルスの最初の奥さんで、『サムデイ・マイ・プリンス・ウィル・カム』という恥ずかしくなるようなタイトルのアルバムジャケットに写真が出ているフランシス・テイラーによると、マイルスはとても嫉妬深く、あっちのほうも強かったらしい。
ミュージカルダンサーだったフランシスはマイルスのために結局ダンサーを辞めることになる。自分の妻が客の脚光を浴びることに我慢ならなかったのだろう。わがままも相当なもので、ある時、ミュージカルのリハーサル最中に電話がかかってきて、昼の休憩時間に一緒にメシを食おうという。説明しても分かってくれる相手ではない。休憩は1時間。急いで駆け付けたが食事はなし。なんのことはない「結局満足したのはマイルス一人だけだった。アハハハハ…」って、なんだ、そういう艶っぽい話か。
「最初の二人の息子とは終生和解することはなかった」と娘さん。娘さんのことは可愛がったのだろう。「いろいろあったけど、最後は水に流して子供たち全員に遺産を平等に分けてくれるかと思ったのに…」とも。ともあれ、あっぱれなわがまま人生ということになろうか。