いい本について

 いい本は売れないと言われるようになって久しい。というか、昔から言われてきたようだ。最近それが甚だしい。われわれもそれにならって、いい本は売れない、いい本は売れないと、ねじれたプライドをこころに秘め、馬鹿の一つおぼえのように繰り返している。暑いときに「あちー」と言ったからといって涼しくならないのと同様、いい本は売れないと唱えたからといって、売れないいい本が売れるようになるわけではない。でも、言う。周りから、春風社はいい本を作るとお誉めの言葉をいただく。誉められて嬉しくないはずはないけれど、いい本は売れないことになっているから痛し痒しで、お誉めの言葉が空しく響くこともある。
 そもそも、いい本というのはなんだ。読んでためになる本。泣ける本。笑える本。泣けも笑えもしないし、ためにもならないが、なんだかしらないが、いい本。いずれにしろ、いい本というのは、読んで初めていい本だとわかる。読む前からいい本だとわかる人は誰もいない。あたりまえ。しかし、ここが最大の問題だ。
 というのは、どうも最近は、読む前から世の人々に何かが伝わっていないといけないようなのだ。その何かを確認するために読む行為があるとでもいうような。本づくりは難しい。ますます難しくなってきた。読んでもらえば必ず読者に何かが伝わるはずの本を、どうやったら手にとって読んでもらえるか。ここが思案のしどころで、宣伝広告費をばんばん掛けられる出版社(そういう出版社があるのが不思議)ならいざ知らず、そうはできないところが小社のアキレス腱。工夫のしどころがここにある。

朝型夜型

 一日の重みが暮れて、のほほんと紙に向い今日一日あるいた距離をかぞえてみたり。この日記を、このごろは夜、書くことが多くなった。下書きだけだけど。下書きだけでも書いておけば、朝、起き立てのぼーとした頭でも機械的に入力するだけだから、うんうん唸って書くこともない。朝と夜では、同じ一日の記述でも、書きっぷりに違いが出るようだ。
 夜はジャズを聴けても朝から聴く気にならないようなものだろうか。違うな。夜はサザンの歌が歌えても、朝から歌う気にならないようなものか。これも違う。ともかく、一日が終って、その日の終りに一日を振り返るのと、夜の眠りを挟んで、朝、目覚めて前日を思い出すのとでは微妙に何かが違っている。夜に書いた文章を、朝、入力しながら手を入れているうちに朝型の文章(そんなのあるかどうかはわからないけれど)になっていることもある。

寝溜め

 土曜、日曜と、食事、トイレ、買物、掃除、体操、入浴以外はとにかく寝られるだけ寝た。夏の暑さのせいもあってか、このごろ少々バテ気味で体とこころに力が入らない。意識して休養を取るようにしている。栄養あるものを食べ、ゆっくりと休む。つまり、寝る。春眠もそうだが、この季節の眠りもなかなか心地好く起きるのがもったいない。寝溜め、食い溜めはできないことになっているけれども、過食、過眠というのでなく、適度な食事と睡眠は何と言ってもエネルギーの源だ。

不調の代償

 昨年の九月頃より若干の体調不良に悩まされ、酒を断ち、暴食を控え、健康を気遣うようになった。好きだったカラオケもさっぱりやらなくなった。ところが、今夏、秋田に帰った折、いつもの気の置けない仲間が集まり、そこでも酒は頑固に断りつづけたが、歌までやめたとは言い難く、すすめられるままにサザンオールスターズの歌を何曲か歌った。一年ぶりに歌う歌は、われながらなんともひ弱で危なげで、いかにも声量に乏しい。どうにかごまかして最後まで歌い通した。声量たっぷりに、ほとんど叫ぶがごとくに歌うのがわたしの歌唱法といえば歌唱法だったのに、これでは自分の歌ではもはやないと、なさけなくなった。なのに、そこは幼なじみ、気を遣ってか、さすが三浦君とかなんとか誉めそやしてくれる。おだててくれる。おだてに乗るものか。わかってるよわかってるよ。声量もなく、どうも心細げに歌うおいらのことを気遣ってくれているのだな。慰めてくれなくったっていいさ。ふっ。そんな調子で自嘲気味に自閉の扉を固く閉め切り、自分の殻に閉じこもろうとしたのだが、カウンター席であっち向きに座って飲んでいたグループの見知らぬ数名が振り向いて拍手してくれた。さらにリクエストまで! 悪い気がしなかった。体調は相変わらず、というか、最悪。しかし、そういう不調の状態で思ったのは、声量が落ち、さらに自分で一番よくわかるのだが、歌も下手クソになっているのになぜウケたのかということ。そして気がついた。味か。そうだ。そうに違いない。長引く体調不良で、能天気にこれまで生きてきたわたしの歌にきっと、そこはかとない枯れた味が加わったのだと。そうとしか考えられない。あはははは…
 というような話を昨日、専務イシバシと武家屋敷ノブコにしたら、イシバシは顔を真っ赤にし、自慢、自慢とわたしを指差し、二の句が継げずに笑い転げている。ヤマギシはといえば、そんな体調不良の中でそんなことを考えていたのと呆れ顔。元気になった証拠よと二人とも喜んでくれた。二人の姿を見ながら、わたしは自分のことを思っていた。馬鹿は死んでも治らないと。

自分

 自律神経という言葉もあるくらいだ。自分と思っているものがコントロールできないとすれば、それを自分と言っていいものか疑ってしまう。意識してコントロールできる部位は意外に少ない。
 疑う自分は疑い得ないということにしたって、相当に怪しい。哲学というようなことは、とりあえず置いといても、気分も感情も、思考も、ほんとうにコントロールできる人がいるだろうか。そういう人がいるとすれば、よほどの人生の達人か、馬鹿か、どっちかではないかと思う。だれが自分をコントロールなどできよう。縁や巡り合わせや、目に見えない大きな力に導かれて、気分も感情も思考も体も働いている。なんと、はかないのだろう。とすれば、自分はいったいどこにいる。
 坂道を上りながら、あんなにいい月をと眺めているとき、ひょっとしたら自分は限りなく透明になって、だれかがわたしを通してあんなにいい月と愛でているのかもしれない。それとも、月明かりに照らされた遥か向こうの丘の上にたたずむ人影が自分で、こっちが自分の影だったりするのかな。

これ…

 営業のマサキさんがちょっといたずらっぽい眼をしてわたしを見た。ん。なに…? マサキさん、つーと、すぐそばまで寄ってきた。これ…。
 写真が数枚。一番上は、芝生の上に寝転がっている中年男の写真。ふむ。わたしのようだ。いや、たしかにわたしだ。いまより少々太ってはいるものの、自分を他人と間違えるほど呆けてはいない。ハンチング帽を被っている。ふむ。あ。そうか。
 というように、気がつくまでに十数秒は要したろう。なぜすぐに気がつかなかったのか。不思議。数学の難問を解くヒントが閃いたぐらいに驚いた。たかだか一年前のこと。昨年の社員旅行の際、伊豆で撮った写真だった。

 棒になっても三浦さんは三浦さんなのだと友人から賛辞(?)をおくられた。棒か。
 棒になった自分を想像してみる。枯れ枝かなにかの木切れの棒が道端に転がっていて、そこいら辺の犬にひょいとくわえられたりして、適当なところまで運ばれたと思ったらポイと意味もなく捨てられてか。そんな棒。
 棒はひとりでは立てない。人間もひとりでは生きられない。教訓にもならないが。が、ここに30センチほどの棒があるとする。とりあえず役に立たない。でも、その棒を巧く放ると、縦に回転しながらずいぶん遠くまで達することもある。水面に石を投げ数十回もジャンプさせるのと同等の美しさでもって縦にトントントン……と。ただそれだけのことだけど、人の手を借りれば、棒にだってそれぐらいの軌道は描けるのだ。