自分
自律神経という言葉もあるくらいだ。自分と思っているものがコントロールできないとすれば、それを自分と言っていいものか疑ってしまう。意識してコントロールできる部位は意外に少ない。
疑う自分は疑い得ないということにしたって、相当に怪しい。哲学というようなことは、とりあえず置いといても、気分も感情も、思考も、ほんとうにコントロールできる人がいるだろうか。そういう人がいるとすれば、よほどの人生の達人か、馬鹿か、どっちかではないかと思う。だれが自分をコントロールなどできよう。縁や巡り合わせや、目に見えない大きな力に導かれて、気分も感情も思考も体も働いている。なんと、はかないのだろう。とすれば、自分はいったいどこにいる。
坂道を上りながら、あんなにいい月をと眺めているとき、ひょっとしたら自分は限りなく透明になって、だれかがわたしを通してあんなにいい月と愛でているのかもしれない。それとも、月明かりに照らされた遥か向こうの丘の上にたたずむ人影が自分で、こっちが自分の影だったりするのかな。
自分ではコントロールできないことって、沢山ありますよね、自分の身体も含めて。でも心は自分のもの。哀しくても辛くても心は自分のもの。他人が踏み込める領域ではありませんよね。わたしは、きょうも月でおもちをつきながら、みんな、がんばれ!みんな、がんばれ!とお祈りしています。
>夢うさぎさま
コメントありがとうございます。
そうですね、こころは自分のもの…なのでしょうね。
ところが、それも今のわたしとしては、そうかなあ、そうなのかなあと、自信がありません。わたしのこころをも司っている大いなるものに祈りたい気持ちです。
みうらさま、こころは足の裏で感じるのがいいと思います。わたしのいる月もわたしは足の裏で感じています。そして、大いなる存在もこの足の裏を作ってくれたのだとわたしは信じています。
「自分は限りなく透明になって、だれかがわたしを通してあんなにいい月と愛でているのかもしれない」・・・そうですね。私も先日おそらくその月を見ていたのですが、その時の気持ち、言われてみるとこのとおりでした。そこで一句、名月や己が身体の透きとおり(拙作)。
私は透きとおった感覚にとどまっているのですが、「(愛でている)だれか」にまで至るとそこには宗教か哲学が開けてくるのかもしれないという気がします。
>夢うさぎさま
足の裏、ですか。
>康介さま
コメントありがとうございます。放哉の句を思い浮かべたりしていました。