雲をつかむような話

 

然るに時としては、陽の位に陽爻が居るのは、
陽に過ぎ剛に過ぎるものとして凶と見ることもある。
時としては、
陰の位に陰爻が居るのは、陰に過ぎ柔に過ぎるものとして凶と見ることもある。
さうして、それと同じく、
陽の位に陰爻が居り、或は陰の位に陽爻が居るのは、
陰陽の氣分が程善く調和されて居るとして、吉と見る場合もある。
これ等は、
卦の性質即ち時代の情態によつて異なるのである。
時と處と位、即ち時代の情態と、
自分の居るところの環境と、自分の身分位地才能道徳とによつて、
適當とする情態がいろいろに變化するのである。
ここに易の活きて居る處がある。
まことに雲を攫むやうな話であるが、ここに易の貴い處があるのである。
(公田連太郎『易經講話 五』明徳出版社、1958年、pp.512-513)

 

公田連太郎『易經講話』をちりちり読んできましたが、
いよいよ最終巻「繫辭下傳」に入り、
だんだん公田さんの、うにょろもにょろの文体に慣れてきました。
とは言い条、
陰陽、もとい、引用の箇所にさしかかったとき、
なんだかなぁ、
雲をつかむような話だなぁ、
と思って読んでいましたら、あら、
公田さん自覚しているらしく
みずから「まことに雲を攫むやうな話であるが」と言っている。
本人が言うんだから間違いない。
「ここに易の貴い處があるのである」
そう言われてもなぁ。
ふと考えました。雲のこと。
雲はつかめないけれど、たしかに存在していて、千変万化する。
しかして、消えてなくなるかと思いきや、
いつの間にやら発達して大雨を降らすこともあり。
つかむことはできないけれど、
機能と役割は大いにあるわけで。
こういうところが貴いのかな。

 

・春日めく洗濯物を取り込めり  野衾

 

エキュメニズム

 

エキュメニズムは純粋な改革行動主義以上のものである。
エキュメニズムは全教会が新しく一つのキリスト教の伝統に、
すなわち、
イエス・キリスト自身の福音に集中する時にのみ
見出され実現されるものである。
その視点からのみ、
教派的な不安や不確かさが解体され、
イデオロギー的熱狂主義やルサンチマンを背負った限界は克服され、
神学的相違の背後に隠された特定の社会、階層、民族、文化文明、
および国家と結びついた経済的、政治的、および文化的もつれが解きほぐされ、
新しい自由へ向けて超越していくことが可能となる。
(ハンス・キュンク[著]/福田誠二[訳]『キリスト教 本質と歴史』
教文館、2020年、pp.876-877)

 

学校の世界史でキリスト教について習ったとき、
たとえば十字軍、宗教戦争、魔女裁判、
魂を救い、平和をもたらすはずの宗教が一体どういうことなんだ
と不思議でしたが、
年代を覚えたり、固有名詞を暗記したりして、
深く考えることをしなかった。
ハンス・キュンクの本を読みながら、
そのことを思い出しました。
こういうこころざしの高い本を読むと、胸がスッキリします。
キュンクさんは一九二八年生まれですから、
現在九十三歳。
訳者の福田誠二さんによれば、
日本語訳を出したい旨をキュンクさんに告げたとき、
とても喜ばれたそうですが、
そのとき、
じぶんが生きているうちに出してほしいと言われたのだとか。
原著者のその願いにこたえて、
この本が日本の読者に届けられたことになります。

 

・遠足の河原早日の翳りゆく  野衾

 

蜘蛛の死

 

このブログに何度か登場している蜘蛛くん、
そのうちの割と小さめの一匹が、
このあいだ、ソファの脚下で小さくなって死んでいました。
蜘蛛が出てくると、
話しかけたりもしますから、
いつの間にか親しい友人のような具合になり、
だもんですから、
ちょっとつまんで手のひらにのせ、
つくづく眺めてみた。
脚を伸ばせば大きい蟹が、縄で縛られ売られている姿にも似て、
八本ある脚をすべて縮めて、
ただの黒い小さな塊。
たまたまソファの脚下で事切れたのだとは思いますが、
なんとなく。
ただなんとなく、少し。

 

・遠足の班に先生まぎれをり  野衾

 

武塙三山の文章

 

弊社の創業十周年を祝うパーティに、
わがふるさとから、
当時の町長で今は亡き齋藤正寧(さいとう まさやす)氏が
わざわざお越しくださり、
あいさつをしてくださいました。
そのなかで、
ふるさとが生んだ偉人として三山の名に触れられた。
武塙三山、本名祐吉、
とおっしゃったときの
齋藤氏のなんとも誇らしげな表情を忘れることができません。
一昨年の四月、
ふるさと井川町の教育長から連絡があり、
子どもたちの国語科副読本として武塙三山の文学選集をつくりたい
とのことでした。
リモートながら連絡を密に取り、
また、
教育長をはじめ、地元の編集委員の皆さんとの協力により、
先月、めでたく本が完成しました。
題して『三山の俤 文の呼吸』
そのことについて、
秋田魁新報文化欄に拙稿が掲載されました。
コチラです。
お読みいただければ幸いです。

 

・賑わいを山遠足のごろた石  野衾

 

バスに乗って

 

心配性の子どもでありました。
思い出すのはバス。
仲台というバス停からバスに乗るのですが、
あの頃はまだ財布を持っていなかったはずですから、
小銭をそのままポケットに入れていた
と思います。
テレビでたまに「はじめてのおつかい」という番組をやっていますが、
あんな感じ。
もう少し大きくなっていたかな。
自家用車が家になく、
バスに乗るのだってたまにのことですから、
うきうき楽しかった、
かといえば、
そんなことは全くなく、
小銭を握りしめ、握りしめ、汗ばんでくるのもお構いなし、
なにを考えていたかといえば、
ほんとうに目的地のバス停で降りられるか、
ということ。
ブザーはなかったはず。
運転手がつぎのバス停の名を発すると、乗降口の近くに行って、
「降ります」
と告げる形式だったような。
とにかく、
ほんとうに降りられるか、乗り過ごすんじゃないのか、
乗り過ごしたらどうしよう、
そのことばっかり、
頭をぐるぐるぐるぐる駆け巡り。
そんな子どもでした。
それが今、
運命のいたずらか、カイシャのシャチョー。
シャチョーさん!
って、
待てよ、
このエピソード、
ここに書いたことなかったか?
たぶんあった。
思うに、
このエピソードを思い出すのは、
おそらく夢と似ていて、
ある一定のメカニズムがありそう。

 

・けふの日の坂のうへなるおぼろ月  野衾

 

春風新聞

 

『春風新聞』第27号ができました。
年に二回出していますから、通常ですと昨年秋に発行するはずが、
前号を配り終えてからという方針を取り、
いまの時期になりました。
今号の特集は
「都市をめぐって」
都市社会学が専門で、
今年二月に刊行した『都市科学事典』の監修
を務めてくださった吉原直樹先生との対談を収めました。
都市というとどうしても、
好きな松本大洋のマンガ『鉄コン筋クリート』
がすぐに思い出され、
対談ではそのことにも触れましたので、
対談の見出しに、
マンガの最後のほうに出てくる「ソコカラナニガミエル?」
のことばも取り入れました。
ソコカラナニガミエル?の「ソコ」を「学問」
とも読んでほしいの願いをこめました。
今号の表紙は、
ブリューゲルの『バベルの塔』
それに新井奥邃の「相敬して遠立すべし」を添えて。
コチラです。

 

・新刊を食ぶ芯まで四月の林檎  野衾

 

キリスト教は学問か

 

トマスは常に教会的栄誉を嫌って学問の人間であることに留まった。
彼はナポリ大司教並びにモンテ・カッシーノ大修道院長になり得たであろう。
しかしながら、彼はその両方を拒否した。
彼は一人の学者、一人の研究者として
――ほとんど――最期の一息まで留まったのである。
(ハンス・キュンク[著]/福田誠二[訳]『キリスト教 本質と歴史』
教文館、2020年、p.587)

 

トマスとは、トマス・アクイナス。
この本、本文だけで千ページを超える分厚いものですが、
著者の志が高いせいか、
ぐいぐい引っ張られるように読み進められます。
(たまに眠くなる)
浅くうわべを撫でるような歴史書もありますが、
一九六二年から始まる第二バチカン公会議で重要な役割を担った
ことからも推し量られるように、
彼のエキュメニカルな精神はほんもののよう、
知識だけの本ではありません。
後半も楽しみ。

 

・菜の花の息深くなる寒風山  野衾