○を描く

 

横須賀で高校教師をしていたころ、
授業内容の補足説明のため黒板に簡単な円グラフを書くようなとき、
チョークでまず大きめの○を描く必要がありました。
○を描くとき、
△や□とちがった緊張を強いられましたが、
そのときの緊張が寝ているときに不意によみがえりました。
△□は直線なので、
さほど緊張しなくても描けた気がします。
○となると、
直線のようにいきません。
まず○の大きさをイメージし、
その中心を決め、
その中心と、黒板に記すチョークの最初の一点が
見えない糸でピーンと引き合っている状態を体で想像し(映し)つつ、
中心点から張られた糸によって常に体全体、
とくに腕と手指が安心に堕しそうになるのを避けつつ、
前へ前へと描き進める。
そのようにして描いた○は、
けっこう○く、
たのもしくもありました。

 

・ゲラ読みの日のとつぷりと秋の暮  野衾

 

完成はない

 

成熟するとは、
生に調理を任せておくこと、果実のようにどこに落ちるか見ることなく、
落ちるままにさせておくこと、である。
幼児のままに留まるとは、
鍋の蓋を開けたいと望むこと、
見てはならないはずのものをすぐに見たいと望むこと、である。
だが、
先のことは考えないで禁じられた扉を開けてしまう寓話の登場人物たちに、
どうして共感せずにいられようか。
(ジョルジョ・アガンベン[著]/岡田温司[訳]『書斎の自画像』月曜社、2019年、p.50)

 

しばらく会っていない友人に電話をし、久しぶりに元気な声を聴きました。
本をよく読む人なので、
いまどんな本を読んでいるの?と訊いたところ、
教えてくれたのが
ジョルジョ・アガンベンの『書斎の自画像』でした。
『ホモ・サケル』で有名なアガンベンですが、
『ホモ・サケル』をふくめ、この人の本を読んだことがなかったので、
いい機会と思い、
『書斎の自画像』をさっそく求め読みました。
タイトルどおり、おしゃれで、散文詩のようでもあり、
おもしろかった。
ハイデガーといっしょに写した写真があり、
老哲学者の姿が印象的でした。
上で引用した箇所を読んだとき、
夏目漱石の言葉を、うろ覚えのまま思い出したので、
適当なキーワードを入れて調べたら出てきました。
アガンベンの趣旨とはニュアンスが異なりますが、
わたしの生の中で、どこか響き合うところがあったようです。
漱石の『道草』にある言葉。

世の中に片付くなんてものは殆どありゃしない。一遍起った事は何時までも続くのさ。
ただ色々な形に変るから、他にも自分にも解らなくなるだけの事さ。

 

・誇り無き吾に友あり秋の風  野衾

 

悲しみの鈴

 

いまは、ほんと、便利になりました。
むかし読んだ本にたしかこんなことが書いてあったな、
と思って、
うろ覚えの単語を入力すると、だいたい引っかかってきます。
松本大洋のマンガ『Sunny』を読んでいたら、
どうしても確かめたくなった言葉があったのです。
「吞気と見える人々も、心の底を叩いて見ると、どこか悲しい音がする。」
『吾輩は猫である』に出てくる言葉でした。
高校時代に読んで以来、
再読していませんが、
うろ覚えでも覚えていたということは、
十代のわたしにとっても印象深い言葉だったのでしょう。
漱石は
「呑気と見える人々」と書いていますが、
松本大洋の『Sunny』を読むと、
悲しいのは大人に限ったことでなく、子どもでもそうであることを再認識し、
じぶんの子ども時代を振り返り、
なんとなく悲しくなって、
こころの底のほうで小さな鈴が鳴っている気がします。
松本大洋は、小学生のころ、
親と暮らせない子どもたちの施設にいた時期があったらしく、
『Sunny』は、自伝的ともいえる作品
のようですが、
生きていくことの悲しみと、
そのことへの共感からくる人への優しさに満ちた傑作
であると思います。

 

・秋茜丘より望む高速道  野衾

 

グローブの臭い

 

いつも持ち歩いているカバンの底がほつれ加減になってきたので、
ただいま修理中。
そこで、
ウォーキングや山歩きの際に使っている革のリュック
を出してきて、
しばらくこちらを持ち歩くことにしました。
休日、
汚れを取り、
クリームを塗って革を磨いていたら、
ふっと、野球のグローブの臭いがにした。
同じ革ですから、さもありなん!
なんともなつかしく、
しばし呆然。
あれは、小学何年生だったでしょう、
はじめてちゃんとしたグローブを買ってもらいました。
想像していたよりも、けっこう重かった。
何度も臭いを嗅いだ気がします。
わたしは左投げ右打ちなので、
左用のグローブでした。
左用の、自分の、自分だけのグローブの臭い、
こころが弾んで、笑いがこみあげた。

 

・為残して宇宙の果ての嚏かな  野衾

 

感謝離

 

ふだん使っているカバンのほかに、
本の持ち運びの際、安価なトートバッグを使用していました。
軽量で折り畳みができ、
使うときだけ広げて本を入れる。
手になじむし、
持ち運びのとき、体にフィットし、体側が気にならない。
多い時は九冊も十冊も。
使っているうちに、取っ手がとれましたので、
安全ピン四個で留めたら頑丈になり、
またしばらく使いました。
とても重宝していたのですが、
この度、思い切って捨てることにしました。
取っ手の所は頑張っているけれど、
袋の底が薄くなり、
光に当てると、小さい穴が数か所開いているのが分かります。
穴が大きくなったり、
穴同士がつながって最終的に破けるまで使う
という手もないではないですが、
そこまでしなくてもと諦め、
捨てることに。
ありがとうございました。

 

・山あいの夕餉の声や濃竜胆  野衾

 

『レイ・ブライアント・トリオ』

 

1960年代の長崎を舞台にした小玉ユキさん描くところの『坂道のアポロン』
が素晴らしく、
また、
だいじなポイントポイントで、
ジャズがうまくフィーチャーされており、
ジャズが好きなわたしとしては、その点でもうれしくなりましたが、
『坂道のアポロン』をきっかけに、
このごろ馴染みのアルバムを出しては、
よく聴いています。
レイ・ブライアントの名前を冠したこのアルバムは、
1957年4月5日に録音されたもので、
わたしが生まれた年にあたっています。
生まれたのは11月、まだ母の胎のなかですが。
いまはCDで持っているこのアルバム、
かつてLPレコードでも聴いていました。
これを聴いていると、いつでも、ふわり優しく包まれるような気がします。
1曲目の「ゴールデン・イアリングス」は、
もとはペギー・リーのヒット曲だったそうで、
マレーネ・ディートリッヒ主演の同名映画の主題曲
としても知られているとのこと。
ライナーノーツを書いている久保田高司さんは、
この曲ついて、
「ジョン・ルイス的エレガンスと、
彼独自の左右両手の絶妙なバランスによって見事にジャズ化している。
そこにはあたかも貴婦人の耳に揺れる黄金の耳飾りの如き風情さえある」
と評しています。

 

・奥入瀬や弾けて水の霧深し  野衾

 

魂と物質

 

ある種の錬金術的観念がキリスト教の教義に著しく類似しているのは偶然ではなく、
伝統的関連によってもたらされた結果である。
王による象徴表現のかなりの部分は、
キリスト教の教義の源泉から生じた。
キリスト教の教義が部分的にエジプト・ヘレニズムの民間信仰
(およびアレクサンドリアのピロンのそれのようなユダヤ・ヘレニズムの哲学)
から生まれたように、
錬金術もそこに淵源をもっている。
錬金術は純キリスト教起源というわけではなく、
部分的には異教的・グノーシス主義的なものに端を発する。
(C.G.ユング[著]/池田紘一[訳]『結合の神秘 Ⅱ』人文書院、2000年、p.12)

 

卑金属を貴金属の金に変えようとする錬金術そのものは
失敗に終わりましたが、
錬金術のながい伝統と歴史の中で培われた
方法、思考は、
多方面に影響を与え、
たとえば現代化学の目覚ましい進歩は、
錬金術を抜きにしては考えられないようです。
また、
ゲーテやニュートンも、
錬金術にのめり込んでいたとのこと。
目に見えない魂の神秘を、
目に見える物質を通じて顕現させようとする人間の欲望、
業のようなものを感じます。

 

・奥入瀬や旅路の果ての霧深し  野衾