うれしきこと

 

学問の世界は、温故知新の精神が重要ですが、
その成果としての学術書には多くの注が施されるのがふつうです。
昨年六月に名古屋大学出版会から刊行された
チャールズ・テイラーの『世俗の時代 上』(千葉眞[監訳])
を読んでいましたら、
『ウォールデン』あるいは『森の生活』で有名なソローの文章が引用されており、
その文言がわたしの記憶に触れるところがありまして、
急いで巻末の注を見たところ、
2005年に弊社が刊行した大西直樹訳の『ウォーキング』
が挙げられていました。
手元にあった『ウォーキング』の該当ページをひらくと、
たしかにその箇所からの引用であることが分かります。
学問の積み上げの営みに参加できたことをうれしく思います。

 

・大蟻や所期の目的忘れたか  野衾

 

中正を得るには

 

世の中には少しく行き過ぎるやうにすることが都合が好い場合が少からずある。
或る物が一方に傾いて居るのを矯め正して、
中正なる情態にしようとするには、
他の一方に少し行き過ぎるところまで持つて行かうとするので
正しくなるのである。
中正なる處まで持つて行かうとするのでは、
中正にはならぬ。
他の一方に少し行き過ぎるやうにしようとするので、
中正になる。
(公田連太郎[著]『易經講話 五』明徳出版社、一九五八年、p.684)

 

公田連太郎『易經講話』の最終巻最終章「雜卦傳」の「小過は過ぐるなり」
についての公田さんの解説文。
これなどは、
易のおもしろさがとてもよく表れていると思います。
論語に
「過ぎたるは猶及ばざるが如し」
のことばがあり、
つとに人口に膾炙していますが、
それと併せ読むことで、
いっそうの味わいが感じられそうです。
こつこつ読んできた易ですが、
ここに、
ギリシア哲学ともキリスト教とも異なる東洋の知恵と世界観
が織り込まれ、
表現されている気がします。

 

・あらはれて高みへ光り夏の蝶  野衾

 

あさって皺になる!?

 

一瞬のことでしたが。
「あさって皺になる…」
家人の発したひと言の意味をすぐに諒解しましたが、
一秒、いや二秒ぐらいかな、
「あさって皺になる…」の「あさって」を明後日と受け止めて、
ん!?
となったのでした。
「麻というのは皺になりやすい」の意味の
「あさって皺になる…」でしたが、
なんだか、ちょっとおもしろい。
「横浜方面、明日は曇りときどき晴れですが、あさっては皺になるでしょう」
みたいな。

 

・蝙蝠を眼で追ひかけて忙しき  野衾

 

目が覚めた!

 

朝から小ぬか雨の降る湿った一日でしたが、
編集長と待ち合わせをし、
東京のとある大学へ。
打ち合わせを終え、ほっと一安心。
帰り、保土ヶ谷駅で電車を降り、上りエスカレーターに歩を進め。
雨はまだ止んでいないようです。
ひょいと見上げると、
上方に、
高校生でしょうか、
ミニスカートを穿いた女子が四、五名、
スーッと下りエスカレーターで下りてきます。
と、
先頭の女子が、
白い右ひざを大きく上げてソックスを引き上げにかかりました。
カッ!(わが目の開く音)
ああビックリした。

 

・押し開く浩瀚の書に初夏の風  野衾

 

同じカラス!?

 

烏のことを考えてみなさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋も倉も持たない。
だが、神は烏を養ってくださる。
(「ルカによる福音書」12章24節)

 

自宅付近の階段を下りているとき、
うしろからカラスに襲われた(カラス的には、おそらく揶揄った)
ことを以前このブログに書いたことがありましたが、
それと同じカラスかどうかわからねど、
今度は、
すぐ近くの家のブロック塀に止まっていて、
通り過ぎるときちょっと緊張した。
鍼灸の先生から、
怖がると揶揄ったり襲ってきたりするから、
怖がらずに声をかけるといいよ、
とアドバイスされていたので、
「おはよう」
と声をかけ、
何気ない素振りを装い通り過ぎた
ら、
ほどなく、
1メートルはなかったと思います、
左耳の横をバサバサっと掠めて飛び去りました。
こちらの緊張を読まれてしまったか!?
遠ざかる姿を見やりながら、
やっぱり同じカラスではないかと。

 

・名を知りて立ち去りがたきポピーかな  野衾

 

藤沢周平とEW&F

 

秋田から二日遅れで届く新聞を見ていましたら、
五ページ目に
「「藤沢文学」思い伝えたい」
の大きな文字。
作家藤沢周平の娘で、
エッセイストの遠藤展子(のぶこ)さんが萬年橋にたたずむ写真とともに。
文章は、共同通信の志田勉さん。
写真は、京極恒太さん。
わたしは、
いくつか短編を読んだくらいで、
藤沢周平の熱心なファンではありませんが、
藤沢さんが「生き様」という言葉をひどく嫌っていた
ということを何かで読み、
ことばを大事にする人であると感じ、
いい印象を持ちつづけています。
記事の文章は、
父と娘の情のかよい合いをほのぼのと感じさせるものですが、
文中、へ~と、
おもしろいエピソードが紹介されていました。
「展子は高校生の頃、
自宅で米国のバンド「アース・ウインド&ファイアー」の曲を聞いていた。
突然、部屋の扉が開く。父だった。
展子に「その曲、何? なかなかいい曲だな」と聞いた。
展子はうれしくなって、曲をカセットテープにダビングして手渡した」
藤沢周平とアース・ウインド&ファイアー、
とりあわせの妙。
アース・ウインド&ファイアーのなんの曲だったんだろう?
『蟬しぐれ』の作家は、
耳もよかったということでしょうか。

 

・日曜出勤帰宅途中草餅買ふ  野衾

 

「興」について

 

中国最古の詩集である詩経には、詩を分類し、六つ挙げている。
いわく、賦、比、興、風、雅、頌。
このうちの「興」について、
たとえば『広辞苑』では「外物に触れて感想を述べたもの」
となっている。
白川静の『字統』では
「《きょく》と同と廾《きょう》とに従う。酒器である同を、上下よりもつ形。
酒をふりそそいで、地霊をよび興すことをいう」とあり、
またさらに、
「興はいわゆる興舞の祝儀によって地霊を興すことばであり、
わが国の序詞や枕詞と、その起源的性格において通ずるところがある」
とある。
白川さんの『初期万葉論』は、
「興」との関連からも面白く読みましたが、
たまたま柴田天馬訳の『定本聊齋志異』を読んでいたら、
巻の六に収録されている「閻王《えんわう》」の冒頭、
これぞまさに興、と思わせられる文章があり、
目をみはりました。

 

李久常《りきうじやう》は臨胊《りんく》の人《ひと》だつた。
あるとき壺榼《さけさかな》を持つて野原に遊びにゆき、
あたりの景色をながめながら一杯飲んでゐると、
一陣の旋風《つむじかぜ》が蓬々《すさまじ》い勢ひで來るのを見た。
かねて旋風《つむじかぜ》には物《もの》の怪《け》が居ると聞いてゐた李は、
敬《うや〳〵》しく酒を地に酹《そゝいで之《それ》を尊[ママ]《異体字、まつ》り、
やがて歸つて來たのである。
(蒲松齢[著]/柴田天馬[訳]『定本聊齋志異 巻六』修道社、1955年、p.287)

 

柴田天馬の訳がおもしろいのは、
ふりがなが、ふつうの施し方とちがい、
原文の意味を汲み、
それを日本語に転換し、
漢字の読みでなく意味をルビとして振っているところ
(引用文でもそうですが、ふつうに振っている箇所もあります)。
それはともかく、
「興」に関するもともとの意味が、聊齋志異の短編にまで登場し、
日本の序詞や枕詞、また、
若菜摘みなど古来の風習とも併せ、とても興味ぶかく感じた次第。ダジャレかよ。

 

・まなこ上ぐ屋根に日永のとどまりて  野衾