永遠の沈黙

 

「人は自らの民族の沈黙のうちに沈み込み、
そこから浮上を繰り返すたびに、
その永遠の沈黙のうちに捉え得る原初の創造から今日までの繋がりを見出す」
(チャールズ・テイラー[著]/千葉眞[監訳]
『世俗の時代 下』名古屋大学出版会、2020年、巻末第20章注の22、p.50)

 

齢を重ねるたびに、感動や疑問、願いや希望を含め、
たとえば、
世界は、宇宙はどうなっているの?
果てはあるの? この世でいちばん強いのはだれ? ニンゲンはどうして死ぬの?
死ねばどこへ行く?
子どものときに感じたさまざまなことが、
大人になるにつれてやせ細り、削ぎ落とされ、
また、
削ぎ落としていくのが大人になることだとの言説に多く触れるようになりますが、
そうではないのではないか、
と、このごろ感じます。
子どものときに感じたもろもろは、
幼く、物を知らなかったからではあるけれど、
物を知らなかったからこそ、
本当に大事なことを感じ分け、よちよち、とぼとぼ歩いていたのではないか。
まとわりつく子どもらを散らそうとする弟子たちに向かい、
そんなことは必要ない、
と諭されたイエス・キリストのことばには、
計り知れない真理がある気がします。
上で引用した文は、
チャールズ・テイラーが印象深く解説を加えているシャルル・ペギーによるもの。

 

・紫陽花や寺一層の気韻盈つ  野衾

 

文字変換のおもしろさ

 

パソコン画面に向かい文字を入力すると、
利口な機械は、過去の入力データから判断するとでもいうのか
適切な漢字にすばやく変換してくれます。
礼儀正しく入力者のわたしに忖度してくれ
「ご主人さま、この漢字でよろしゅうございましょうか」
という声が聞こえてきそうなぐらい、
このごろの機械はいたって利口。
「そうかそうか。苦しゅうない。近う寄れ」
なんて。
しかし、
いくら利口でも、
こちらの入力における過去のデータが乏しい場合は、
一般的な変換傾向に準じて行うしかないようで、
ときどきおもしろい変換をしてくれることがあります。
そうした場合、
怒りがもたげるどころか、
健気な(!?)機械をかわいく思うことがしばしばで。
先日、
「ちかくのげんしょうがく」
と入力すると、
「近くの現象学」という文言が目の前に現れた。
あはは。
「近くの現象学」
いい、いい。
近くがあれば、遠くもある、か。
「遠くの現象学」
なんて。
数分、
そんなことで遊んで気晴らしができた。
ちなみに、
かつてメルロ・ポンティを、もちろん翻訳を通してですが、
日本語になっているものはほとんど読みました。
メルロ・ポンティのことを日常会話にさしはさむことで、
なんだかじぶんがいっぱし物を考えているような気分に浸ったり。
と、
あるとき、
おそらくメルロ・ポンティのものが日本に紹介され始めたころの話
かとも思いますが、
メルロ・ポンティがメルロ・ポンティでなく、
メルロ・ポンチとなっていた。
メルロ・ポンチ。
思わず、噴き出してしまいました。
長屋の八っつぁん、熊さんみたいで、急に親しみがわき。
八っつぁん熊さんポンチさん。
ポンチだと、
「知覚」よりは「近く」が似合っている。
味噌がなくなったからちょっくら隣の家で借りてこよう、
てな感じ。
メルロ・ポンチ著『近くの現象学』
ね。

 

・新緑を浴びて雀が三羽かな  野衾

 

意味の意味

 

私たちがなすことにはつねにある種の要点がある。
私たちはさまざまな計画に着手しつつ、またその間、
自らの生活を維持するためのルーティンを保ち続けている。
これらのすべてを通じて、何ものかが成長していくのかもしれない。
例えば一つの愛の人生が。
あるいは、大人になり、自分自身の人生へと旅立っていく子どもたちが。
そのように人々は何らかの価値ある有益な活動に熟達していく
のかもしれない。
しかし、
私たちはまた、
こうしたすべてが結局のところ何になるのか
という問いに突き当たることもあり得る。
いったいそれにどのような意味があるのか、と。
あるいは、
あらゆる個別の計画や
めぐり来るルーティンはそれぞれの目的をもっているのだから、
問いはより高次のものとなろう。
これら個別の目的のすべてにどのような意味があるのか、
と。
「「意味の意味」――これらすべての個別的意義の究極的な意義――
が私たちに欠けているのである」
(チャールズ・テイラー[著]/千葉眞[監訳]
『世俗の時代 下』名古屋大学出版会、2020年、p.804)

 

たしか高校生、
漱石を集中的に読み始めたころだったかな。
ニンゲンはなんのために生きるのか、と、ふと疑問が湧いた。
考えても分からず、
学校で習った進化論を盾に、
もともと生きることに意味などないのに、頭でっかちになったニンゲンは、
意味がないこととして生きるのは、つまらないし、
どうにも耐えられないから、
無理やり意味をでっちあげたのではないか、
そんなふうに理屈をこね、
ともだちに手紙を書いた(それは大学に入ってからか?)。
十代で感じた疑問はその後もつづき、
口にすることは少なくなったけど、
解消されることはなく、いまにつながっている。
登場人物が、降る雨の意味を問いかけるチェーホフの文に触れたとき、
江藤淳の自殺のニュースを知ったとき、
著名な男性の学者が高齢になりカトリックに入信した、
そのことに疑問を投げかけた女性の学者の存在を知ったとき、
また、「精神の下痢」を病んだとき、
もたげてくるのは、
ニンゲンはなんのために生きるのか、
だった。
本、マンガ、音楽、映画、
その他もろもろを飽きず探し求めるのは、
けっきょくのところ、
ニンゲンはなんのために生きるのか、
の、
答えを知りたくて、
いや、
そうでなく、
問いをもっと深く味わいたくて、読んだり、聴いたり、見たり。
答えはあるか、無いか。
文の風景、ときどきマンガ、音楽、映画は、
きょうどんな光芒を放つだろう、
それをいっぱい楽しみたいと思います。

 

・夏蝶や閉じて開いてまた閉じて  野衾

 

威厳破れたり!!

 

拙宅から見える南側の丘の上、
三角帽子の屋根のアンテナに連日一羽のカラスが止まる。
彫像のようにじっと動かない。
遠くからなのではっきりしたことは分からないが、入れ替わりでなく、
同じカラス、
かもしれない。
当たって欲しくない予報が的中し、
きのうは朝から雨が静かに降っていた。
向こうを見やれば、
一幅の絵のようにして、アンテナにカラス。
会ったことはないけれど、
メフィストフェレスのごとき佇まい、
泰然自若の姿を見よ。
と。
羽を広げ俄かに飛び立ったかと思いきや、
そう遠くない、馬の腹のようなる少し弛んだ電線に体を預けた。
あてが外れたか、電線が、揺れ始める。
揺れる。
揺れる。
揺れがだんだん大きくなる。
しばらく威厳を保っていたカラスは、
一本の綱の上のお笑い芸人よろしく片足を大きく外し(ちょっと話を盛りすぎた)
ついにバランスを欠き、
こらえ切れずに飛び立った。
飛び散ったのは雨か、はたまた冷や汗か。
焦ったろう。
焦ったに違いない。
こちらからわたしがじっと見ていたことなど知る由もなく。
カラスの威厳が破れた瞬間であった。

 

・水含みハンカチを持つ少女かな  野衾

 

飛燕

 

仕事帰り、視界を横切るものがあり、
ふと見ると、ツバメ。
このごろよく目にする駐車場の端をかすめ今井川のほうへ飛び去り、
またこちら。
駐車場は二台分空きがありましたから、
引き寄せられるように今井側の川べり近くまで。
ツバメは猶も、
低空をいそがしく飛んでいます。
明日は雨だな。
低気圧の影響で湿度が増すと、
餌にする羽虫の羽が重くなり羽虫が高く飛べずツバメもおのずと低く飛ぶ、
と気象予報士が言っていた。
飛燕は春の季語。
いまは新緑、夏へと向かう。

 

・朝礼や校長がハンカチ語る  野衾

 

閃いた!?

 

きのうは、温めていた企画を社員に伝えるという大事な仕事があり、
どんなことばで、どう話せばいいのか、
アタマがいつになくフル回転していたようで、
そのためもあって、
一日の務めが終ってもまだ冴えが残っていたらしく、
いつもなら、
悶々と悩むテレビのクイズ問題に
速攻で答え、
家人に驚かれたり。
で。
閃いた!?
突然ですが、比較的文学。
比較文学でなく。
世に比較文学なるものが存在し、
ウィキペディアを見ると、
「比較文学(ひかくぶんがく)は、文学の一分野。
各国の文学作品を比較して、表現・精神性などを対比させて論じる立場」
と説明されています。
日本比較文学会なる学会もあります。
そこに「的」を投入し、
「比較的文学」「日本比較的文学会」
となると、
ふたつとも存在しません。
あたり前田のクラッカー(古いか)
たった一文字「的」を加えるだけで、
厳密な学問の世界がなにやら妖しくゆらめいて、
ゆる~~~く変貌を遂げる。
文学のようで文学でない、
では文学ではないのか、といえば、そうとも言い切れない、
まぁ、どちらかといえば、文学、
みたいな。
と。
さて、
色づくきょうの仕事きょうの仕事。

 

・吾もまた後ろ姿かサンドレス  野衾

 

「ぜ」について

 

3番の歌詞に「今日こそキッスしてやるぜ」というのがありますが、
この〈ぜ〉を流行させたのはご存知、石原裕次郎でした。
「俺は待ってるぜ」と〈イカス〉男の言うセリフだったわけです。
そして歌謡界最後の、〈ぜ〉男は近藤真彦です。
昨今の男の子事情からして、
もう彼の後に〈ぜ〉が似合う男の子は登場しないのではないでしょうか?
裕次郎の〈ぜ〉には〈余裕〉が、橋の〈ぜ〉には、〈勇気〉が、
マッチの〈ぜ〉には〈から元気〉を感じてしまうのですが、
これも時代なのでしょうか?
しかし、
この〈から元気〉すら懐かしいと感じる時代が、
もう既に始まっているのかもしれません。
(大瀧詠一『大瀧詠一 Writing&Talking』白夜書房、2015年、p.648)

 

大瀧詠一が亡くなったのが2013年12月30日で、
それから一年三か月ほどして、さまざまな媒体に書いていた大瀧の文章とインタビュー
をまとめた本が出版されました。
買って会社に置いてあったのを、
このたびじっくり読んでみて、
いろいろ発見することがありました。
引用した文章は、
1999年8月に出された橋幸夫のアルバム『SWIM! SWIM! SWIM!』に付されたライナーの角、
もとい、ライナーノーツから。
1曲目「ゼッケンNo.1スタートだ」に関して。
内容もさることながら、
この文章中「昨今の」の使い方が絶妙。
ここで笑ってしまいました。
ちなみにわたしは、
これまでの人生で「ぜ」を使用したことはありません。
おそらくこれからの人生でも使うことはないだろうと思います。
いや、ひょっとして、
人生の最後に、
「俺は死にそうだぜ」
と言うかもしれない。
いや、
それはぜったいにないな。

 

・ひむがしの時を見てゐるレースかな  野衾