老年

 

今月が誕生月で、もうすぐ六十三歳。
六十になったとき、
へ~このおれが還暦かよ、まいったな、
みたいな、
じぶんの年齢を、他人事のようにからかう具合でしたが、
あれから三年がたち、
老年に入ったことをつくづく、また、しみじみ考えさせられます。
右手の高速道路に目をやりつつ、
百八十一段ある階段をゆっくり下りながら、
こころの中に、たしかに、
子ども、少年、青年、壮年のじぶんが息づいている
と感じます。
樹の年輪のように。
若いときに読む本は、
体験を読み込むための補助線でありましたが、
いまは、
本のほうが補助線となって、
ひとつひとつの体験が本によって読みこまれ、
体験が経験へと変えられていくようにも感じます。
あとは、
経験の意味を探り、
ただしく定め、日用の糧とし、
誤嚥せぬよう気を付け感謝して進みたい。

 

・冬の蠅近づく吾を飛び去りぬ  野衾

 

三権分立

 

日本では菅さんが総理大臣になり、
アメリカでは次期大統領選が予断を許さぬ状況にありますが、
政治思想の根幹にある三権分立の考え方
を蔑ろにしかねない傾向が、
二国に限らずこのごろ出て来ているように思われます。
三権分立といえば、モンテスキューであり、
そのまえのジョン・ロックであることは、
中学の社会の授業で習いますけれども、
その根底には、
理知的な歴史の理解と深い人間への洞察があったはず。
クエンティン・スキナーの『近代政治思想の基礎』のなかにこんな箇所があり、
目をみはりました。

 

一五五〇年代に急進的なカルヴァン派によって展開された人民革命理論は
近代立憲主義思想の主潮へと流れ込む運命にあった。
もし一世紀以上も先のジョン・ロックの『統治二論』
――急進的なカルヴァン派政治学の古典的なテキスト――
にちょっと目をやるならば、
同じ一連の結論が、
しかも意外なほど同じ一連の論拠によって、擁護されていることがわかるのである。
『第二論文』の最後のパラグラフで、
政府がその職務の責任を果たしているかいなかについて
「誰が審判者となるか」と問うとき、
ロックはそれに答え、
その合法的な限界を越える支配者に抵抗する権限は
単に下位の執政官や人民の他の代表者にばかりでなく、市民自身にもある、
なぜなら
「このような場合の適切な審判者は人民全体であるべきである」からだ、と主張する。
(クエンティン・スキナー[著]/門間都喜郎[訳]『近代政治思想の基礎――
ルネッサンス、宗教改革の時代』春風社、2009年、p.519)

 

目の前の政治状況の底には、
いわば地下水のように、人間が培った歴史の叡智が潺湲と流れている。
それを無視するわけにはいかない。
現代の政治思想の基礎をつくったひとりジョン・ロックの『統治二論』には、
宗教改革の時代の中心的な議論が流れ込んでいると、
スキナーは言う。
脈々と受け継がれる歴史のうねりを意識するとともに、
その流れを生じさせた要因のひとつに、
十四世紀を境に始まるペスト禍があったことを思わずにはいられない。

 

・崖つぷち光を揺する薄かな  野衾

 

思い込みを廃す

 

秋田魁新報文化欄「ひだまり」のコーナーに拙稿が掲載されました。
割とゆるい依頼で、
「ことばに関するエトセトラ」みたいなことでしたから、
よろこんで気軽に引き受け、
その六回目になります。
仕事が学術書の編集、出版ですので、
ふだん何気なくしていることを意識化する上でも、
ありがたい機会を与えてもらったと思います。
今回は、
過去の苦い経験を踏まえ日頃肝に銘じていることを書きました。
コチラです。

 

・蚯蚓鳴く地団太を踏む一日かな  野衾

 

薬する勿れ

 

昔、漢の景帝の時に、呉楚七国が乱を起したとき、
周亞夫が大将となつてそれを討伐したのであるが、
或る夜中に、
周亞夫の軍中が故無くして騒ぎ立て、周亞夫が寝て居る室の近くまで騒ぎ立てた。
然るに周亞夫は、
静にじつとして寝てゐるままで動かなかつた。
その内にその騒ぎが根拠の無い事であることが分つたので、
鎮定したと云ふことである。
この話は史記・漢書などに載つて居る。
周亞夫が无妄の道に叶つて居るか如何かは姑く措いて、
「薬する勿れ、喜有り。」といふ言葉の一つの例にはなるであらう。
(公田連太郎[述]『易經講話 二』明徳出版社、1958年、pp.456-457)

 

弊社は、先月から二十二年目に入りました。
小さい会社の代表を務めながら、
プライベートとは別に、また、六三三四で体験した時間とは別に、
会社組織をいかに生き生きと、
いっしょに働く人がどうすれば仲良く疎外感を味わわずに仕事できるか、
それを考えてきた二十一年間でしたが、
いまも、そのことを継続して考えながら仕事をしています。
何ごとによらず、
ほんの小さな芽を見つけすぐの対応を考える
ことが大事な場面もありますが、
上で引用した箇所は、
それと反対の要諦を指し示していると思われ胸にしみます。

 

・押し黙り雲何処まで秋の宿  野衾

 

 

丘の上から階段を下り、踊り場で方向を変え、下を見ると、
一匹の猫と二羽の烏がいた。
にんげんであれば、
さしずめ階段の途中で世間話に興じている、
といった風情。
わたしはしずかに階段を下りていった。
二メートルほどに近づいたとき、
一羽の烏が飛びのいて、傍の木に移動した。
猫はうずくまったまま、後ろ脚の付け根の辺りを舐めている。
もう一羽の烏は、
鉢植えの花をよく置いてある家のブロック塀の上にいて、
わたしが横を歩いても飛びのく風でもなく、
カッカッカッと、
首を数回小刻みにかたむけた。
そばで見る烏は、大げさでなく、鶏ほどの大きさに見える。
羽は黒々と光っている。
視線を階段に戻し、ゆっくり、そろり、
階段を一段、二段、三段、
と、
バサバサッ。
な、な、な、???
大きな黒い邪な力が帽子にさわった。
烏!
からかうようにして頭上を飛び去ったかと思いきや、
すぐ下の、アパートの屋根に止まった。
あやうく帽子を掠め取られるところだった。
帽子をかぶっていなかったら、
想像するだに、恐ろしくなった。
何ごともなかったかのように、烏はジッとこちらを見ている。

 

・鼻唄も母との旅を秋の朝  野衾

 

謙について

 

初六。謙謙。君子用渉大川。吉。
(初六、謙謙す。君子用(も)つて大川を渉る。吉。)
象曰。謙謙君子。卑以自牧也。
(象に曰く、謙謙する君子は、卑にして以て自ら牧(やしな)ふなり。)

『初六。謙謙。君子用渉大川。吉。』
周易には、乾乾・謙謙・夬(くわい)夬・坎坎など
二字重ねてあることがしばしば出て居るが、
これ等は、さうした上にもさうするといふ意味である。
謙謙とは、
へり下る上にもヘリ下るという意味である。
(公田連太郎[述]『易經講話 二』明徳出版社、1958年、p.142)

 

むかしの日本人は、中国の古典をよく勉強していたようで、
キリスト者・新井奥邃もその一人。
奥邃の文章には「謙」の文字がよく登場します。
墨蹟に「謙虚」の文字があり、
暮らした学舎の名前は「謙和舎」でした。
奥邃がいかに「謙」の文字、またそのこころを大事にしていたかが分かります。
易のこの箇所を読み、すぐに奥邃の文を思い出しました。
ここにはまた「渉」の文字が使われています。
空間の移動を表す「わたる」は、
「渡り鳥」のようにふつう「渡」を用いますが、
ここでは「渉」。
さんずいに「歩く」で、渉る。わたる。
大きい川を渉る。
公田連太郎はこの箇所の解説に、つぎのように記しています。
「君子は、このヘリ下る上にも又ヘリ下る徳を用ひて、大なる川を渉り、
即ち険阻艱難なる場処を乗り越すのであり、
吉にして福(さいはひ)を得られるのである。」
ことは君子に限らないでしょう。
「徳を身につける」のでなく、
「徳を用ひて」というのがおもしろい。
険阻艱難を乗り切るのに、謙謙、徹底的にヘリ下ることが肝要
というのは、
きわめて戦略的、実際的、生活的であると感じます。

 

・逆光の暈に突き入る飛蝗かな  野衾

 

技あり

 

暴走族っても、淋しがりやが多いわけ。
あいつら、ひとりずつだったら根性小さいのばっかりよ。やさしいコなのよ。
それを、こういう社会の中で、さわらぬ神にたたりなしってやるから、
よけいグレちゃうのよ。
グレるってこと、どういうことか知ってる?
うん、はぐれるってことなんだ。
群れから離れる。はぐれる淋しさ。のけもの。
先に道がないんだ。
ところが、
いまの確立した社会では、その社会の動きを邪魔する行為をグレるっていう。
ほんとは違うんだ、はぐれるなんだよ。
はぐれてんのは、本人が望んでるわけじゃないんだよ。
ますますはぐれるところへ、自分で自分を追いこんでいる。
まわりがそうさすから……。
まわりが、電気暗くしちゃうから。
ますますはぐれる。もっと逃避したくなる。
(矢沢永吉『矢沢永吉激論集 成り上がり』角川文庫、1980年、pp.279-280)

 

出川哲朗がバイブルだという矢沢永吉の『成り上がり』、
おもしろく読みました。
角川文庫になる前、
1978年に小学館から単行本で出たらしく、
当時矢沢は二十代後半。
インタビュアー、編集の糸井重里は矢沢より年齢一つ上。
ふたりとも二十代。
二十代でこういう仕事をしていたかと思うと、
ちょっと信じられないぐらいです。
矢沢の口調を生かした編集になっていると感じますが、
当然のことながら、
実際の語りそのものではないはず。
しかし、
読み進めていると、
まるで矢沢が目の前で熱く語っているよう。
語りが熱してくる場面では、助詞がけっこう省かれて、
そこだけ取り出して引用したら、
何を言っているのか理解しづらいのでは、と危ぶまれるぐらいに。
ところが、
読んでいく過程ではちゃんと理解が及ぶ。
そういう編集の技を二十代で会得していたのかと舌を巻きます。

 

・鴇色に揺るるともなし薄かな  野衾