日本書紀の怪

 

岩波文庫版『日本書紀』をようやく読み終わりましたが、
全体を通して、
それほど面白いものではありませんでした。
比較する意味で振り返れば、
司馬遷の『史記』が面白いといっても、
世家と列伝の篇が面白いのであって、歴代帝王の事績を記した本紀は、
わたしにとって、
それほど面白いものではなかった。
日本書紀は、
史記でいえば本紀にあたるものですから、
面白くないのは当然かもしれません。
ただ、
わたしの興味からいって、
了解したのは、
日本史を動かしてきた燃料は稲作である、
ということ。
日輪のたぐいなき愛が全篇に響いていると感じました。
全体としては、
そんなことを思いながら読みましたが、
武烈天皇の記事と同様に、
最後に近く、
持統天皇の篇で一か所、
なんだこれは、
と目をみはる文言に出合った。
岩波文庫『日本書紀(五)』238ページ。

 

是歳《ことし》、蛇《をろち》と犬《いぬ》と相交《つる》めり。
俄《しばらく》ありて倶《とも》に死《し》ぬ。
(《 》はルビ)

 

ヘビと犬が交尾して、しばらくして、両方死んだ。
この記事が、前後となんの脈絡もなく(と、わたしには感じられた)
表れます。
しかも、これに関してなんの説明もありません。
なので、かえってギョッとし、
ひょっとしたら、
こういう事実があったのかも、
いやいや、
そんなことはあり得ない、
いや待てよ、
と、
しばし考え込んでしまうことに。
それとも。
ヘビと犬を、素直に、動物のヘビと犬と思って読んではいけないのか。
分かりません。

 

・あまてらす天の下なる稲つるび  野衾

 

初穂としての本

 

新嘗祭と書いて、にいなめさい、と読み、
天皇が新穀を神々に供え、みずからも食して収穫を感謝する宮中の祭事で、
十一月二十三日がその日にあたり、
現在は、
「勤労感謝の日」となっています。
新嘗について、
白川静さんは、字訓のなかで、
「新嘗(にひなへ)」は「新(にひ)の饗(あ)へ」で、
「にひ」は新穀、すなわち初穂を意味し、「贄(にへ)」と同系の語である、
としています。
初穂とは、
その年、最初に実った稲の穂、という意味です。
こんなことをいきなり書きましたのは、
拙著『文の風景 ときどきマンガ、音楽、映画』を読んだ
畏友・高橋大(たかはし まさる)さんからいただいた、
すてきな絵手紙に触発されたからです。
里山風の田園風景の中に拙著が置かれていますが、
なんの違和感もなく、
ああ、そうか、
と納得がいきました。
おもしろく感じ、ある記憶が呼び覚まされました。
子どものころ、
稲刈りを控えた田んぼの稲を、小高い丘の上に登って眺めるのが好きでした。
こうして書いていても、
そのときの気持ちがよみがえってきます。
黄金色の稲穂がずうっと広く、広く、敷き詰められているところへ、
秋の風が吹いてきて、
さわさわと稲穂を揺らし通り過ぎていく。
風は見えないけれども、
稲穂がつぎつぎと揺れることで、
その存在を知ることができました。
高橋さんの絵から、その時の情景、昂奮がありありとよみがえり、
こんかいのこの本は、
いわば、稲の初穂のようなものであり、
そのことへの感謝の気持ちでもあるか、とあらためて感じます。
わたしのこころが土で、
そこに蒔かれた種たちが芽を出し、花を咲かせ、実をつけ、時を待って刈り入れられた、
なかには、土になじまず、また施肥が足りず、水や日が足りずに、
途中で枯れてしまったものがあるかもしれない。
そんなことも含めて、
農業との対比を思わずにいられません。
岩波文庫版『日本書紀』の中に、
「農」一字に「なりはひ」とルビが振られていました。
「なりわい」は今「生業」と書きますが、
もともとは、農業における日々の仕事、活動を指すことばでした。
高橋さんの了解を得ましたので、
下にその写真を掲げます。
ありがとうございました。

 

・古代より歳の祝ひや稲つるび  野衾

 

肉声が聴こえない

 

岩波文庫の『日本書紀』、
詳しすぎるぐらいの注と補注に助けられ、ようやく最終五巻目に入りました
が、
全体を通して感じるのは、
総じて、つまらない、
ということ。
仁徳天皇の灌漑工事の事績に関する記述など、
個人的に興味を持った箇所がないわけではないけれど、
かつてキンチョールのテレビコマーシャルで、
大滝秀治扮する老父が息子に向かい
「つまらん! お前の話はつまらん」と発して話題を呼びましたが、
それに準えていえば、
「つまらん! 日本書紀の記述はつまらん」
ということになります。
岩波文庫にはなかったと思いますが、
この文庫の校注の仕事にかかわった研究者が、ほかのところで、
日本書紀は、
読んで面白いというような書物ではない、
と言っているみたいですから、
やはり、
日本書紀は、読み物としてはつまらない、というのが通り相場のようです。
源氏物語の蛍の巻に、
光源氏の語る(すなわち紫式部の)物語論として有名な、
「日本紀などはただかたそばぞかし」
というセリフがでてきますが、
なるほどと合点がいきます。
ところで。
なんでそんなにつまらないのか。
ひとことで言って、
外国向けに編まれた正史であるがゆえに、
書き手の肉声が聴こえてこないことに原因がありそうです。
しかし、
正史がすべてつまらないかといえば、
そういうことでもない。
お手本にした中国の、
たとえば史記、漢書(これは、これから)には、
司馬遷、班固の声が記述の中に響いていて、
それが歴史書を読む楽しさを味わわせてくれます。
もうひとつ。
日本書紀を読んで感じるのは、
歴史の本でありながら、細かい日付、
ほかの史料に登場しない朝鮮人の名前がやたらに多く、
歴史書でありながら、
きわめて日記に近いということ。
日記なら日記で、
ドナルド・キーンさんが言うように、
記述者の肉声が聴こえてくれば、
かえっておもしろいものになったのかもしれませんが、
正史ということで、
いやいややらされた感がどうにも拭えない。
とは言い条、
正史である日本書紀が日記的であることが、
わたくし的には今回の読書の最大の発見かも知れません。

 

・いくつかの恋の名残の茘枝かな  野衾

 

ことばの海

 

きのうにひきつづき、義母と家人の電話から。
家人から間接的に聞いた話によれば、
義母は会話のなかで、
「本をパッと開いて、つと見たら、三橋美智也のことが書いてあり…」
ということばがでてきたと。
この「つと見たら」の
「つと」、
義母の用法では、「つ」にアクセントがあるらしい。
現在の国語辞書にも載っているけれど、
わりと由緒正しきことばのようで、
たとえば、
枕草子の第百二十二段に、
「げに、いとあはれなりなど、ききながら、涙のつと出で来ぬ、いとはしたなし」
とあり、
「急に、さっと」
の意味で使われているから、
義母の使い方に近い。
ことばは生きて、
とどまることなく変化していき、
齢を重ねたひとの嘆きの対象にもなるけれど、
その一方で、
古くからあることばが息づき、
日常的になお使われている場面に接すると、
なんとなく気持ちが落ち着き、
うれしくなる。
ことばの海の波頭の下には、
深い青をたたえてどっぷりと静かな水が流れている。

 

・苦瓜苦し後悔に二つあり  野衾

 

物の楽しさ

 

義理の母から家人に電話がありました。
わたしは本を読みながら、片耳で家人の受け答えを聴いていましたが、
どうやら、
送った拙著『文の風景 ときどきマンガ、音楽、映画』
のお礼のようです。
家人、
母との会話をしばし置き、
「おかあさん、分厚い本だこと、読みづらいんではないかしら、と思ったら、
開いたら180度、平らになるじゃない、びっくりしちゃった、だって」
と話の一端を告げてくれました。
それを聞いて、
嬉しくなりました。
たとえば、
本を読んでいてほかの用事を急に思い出したり、
トイレに立ったりすることが間々ありますが、
そんなとき、
読んでいた本に栞を挟んだり、
栞がないときには、
読みかけのところを見失わぬよう本を裏返しにし、
開いたまま伏せたりします。
が、
こんかい、
そういう手間が要らぬよう、
また、
六〇〇ページを超える本ですから、
それなりの重さがありますので、
手に持たなくても、
机の上やテーブルの上に本を置き、
指先で、開いた本の両端をちょんと押さえるだけで読み進められるよう、
コデックス装を採用したことを、
義母が、驚きを以て楽しんでくれたと思いました。
まことに「本は物である」。
七月に亡くなられた装丁家の桂川潤さんにもお見せしたかった。
昨日、
依頼している業者の倉庫に入りましたので、
明日以降、
市場に持ち込まれるはずです。
いったん告知したのに、製作が延び延びになり、
予約注文くださった方には申し訳ないことでした。
届きましたら、
そういうことですので、
開いたところから読んでいただければ嬉しいです。

 

・秋の雲別れしひとの懐かしき  野衾

 

天地始粛

 

七十二候のうち、きょうを挟む五日間は「天地始粛」てんちはじめてさむし。
暦どおり、きょうあたりから少し気温が下がる気配。
外を歩いていると、
蟬の死骸をよく目にするようになりました。
それと並行して、
蜻蛉のホバリングに目が行きます。
野良猫たちの動きが少しだけ活発になったような。

 

・なにとなく日がなゆかしき浴衣かな  野衾

 

世界への信頼

 

学習院大学の中条省平先生、東京学芸大学の末松裕基先生をお招きし、
拙著『文の風景 ときどきマンガ、音楽、映画』
について鼎談を行いました。
足柄山の仏師に依頼し作ってもらった弊社の木のテーブルは、
かなりデカいものですが、
末松先生、
これまで上梓した拙著をはじめ、
『文の風景~』で紹介した本、中条先生の本、中条先生の本のなかで紹介されていた本など、
そうとうな数の本をお持ちくださり、
テーブルの上に並べたところ、なんとも壮観!
この暑い中、
よくぞこの大量の本(重量何キロあったんだろう!)を、
と驚くやら、嬉しいやらで、
一気に気分が高揚し、
おかげさまで、
土曜日のあの時間と場は、まさにカーニバル、
夏祭と化しました。
拙著についての鼎談なので、
なるべくしゃべらないようにしようと思い、
そう宣言もしたのですが、
祭なのに黙っているわけにもいかず、
こころがうずき、火照り、
やっぱり、かなりの量、しゃべってしまいました。
二時間半の祭の最後にちかく、
中条先生がドゥルーズの『シネマ』の中の文言「世界への信頼」
ということばを引き、
お話しくださいました。
その話を伺いながら、
毎日ブログを書き、駄句をアップしているのは、
「世界への信頼」を失くしたくないという、細やかであっても、
切実なこころの現れ、また足掻き、
かも知れないと思いました。
土地褒め、国誉め、あいさつ句、の用語は、
「世界への信頼」があって初めて成り立つ世界であるとも感じます。
また、
詩経を初めとする中国の詩において、
「興」とよばれる発想法は呪儀に起原する修辞だそうで、
地霊を興《おこ》すことばとしてあり、
わが国の序詞や枕詞とその起原的性格において通ずる、
ということが白川静さんの本に書いてある。
ちなみに「興」の字は、
酒器である同を、上下よりもつ形。
酒をふりそそいで地霊をよび興《おこ》すことが「興」。
世界への信頼が無い処では、
興も、詩も、俳句も、歌も、無い。
日記を書くことと合わせ、俳句を作ることは、
世界への信頼を確認し、回復し、感謝して生きるための工夫かも知れません。

 

・新涼や恋は脳内麻痺ならん  野衾