ヤッシャ・ハイフェッツ

 

中学時代の音楽担当は、小林恒子(こばやし つねこ)先生。
拙著『文の風景 ときどきマンガ、音楽、映画』
に、
先生の思い出を取り上げましたが、
ほかにもいくつか忘れられないエピソードがありまして。
一年生のときだったでしょうか、
聴いた途端、
のけぞったことがありました。
サラサーテというひとが作曲したツィゴイネルワイゼン。
サラサーテ、
ツィゴイネルワイゼン。
音楽の衝撃とともに覚えましたので、以来、忘れたことがありません。
その後、
高校、大学を経て社会人となり、
ときどき耳にすることがありました。
なつかしく、
ただなつかしく。
あるとき、ふと、疑問が湧いてきました。
恒子先生が聴かせてくださったツィゴイネルワイゼンは、だれのものだったろう。
その疑問が湧いてからというもの、
それまでなつかしい気持ちで聴いていたツィゴイネルワイゼンが、
ちょっとちがって聴こえてくるようになった。
母をたずねて三千里、
はたまた、
名探偵コナンの、真実はいつもひとつ、
とでもいうのか、
恒子先生が教えてくれたツィゴイネルワイゼンの衝撃の度数を知りたくて、
事あるごとに耳を澄ませた。
ちがう。
ちがう。
これではない。これもちがう。
何年、いや、もっと。
あるとき、
ラジオだったか、なんだったか、
とんと忘れてしまったけれど、
息が止まるように感じた。こ、これだっ!!
ヤッシャ・ハイフェッツ。
きいたことのない名前。
しかし、
記憶のなかのツィゴイネルワイゼンの衝撃にぴたりと一致した。
恒子先生が聴かせてくださったのは、
これにちがいない。
まちがいない。
そう信じていますが、
真実かならずしも事実でないように、
そうでなかったかもしれません。
ただ、
ヤッシャ・ハイフェッツが演奏するツィゴイネルワイゼンは、
あのときの衝撃をたしかに再現してくれます。

 

・田仕事を生きて楽しも初穂かな  野衾

 

ロックのルーツ

 

理想はバッファロー・スプリングフィールドだということをふたりは理解していた。
けれども、
そのサウンドを単にコピーするだけではない、
しっかりと深く張られた根のようなものを見つける
ことが新たなバンドには必要だった。
それにはいくつかのヒントがあった。
細野が念頭に置いたのは、
バッファロー・スプリングフィールドのセカンド・アルバム『アゲイン』
の裏ジャケットに記された、膨大なサンクス・クレジットだ。
オーティス・レディング、ハンク・ウィリアムズ、ベンチャーズ、ジミ・ヘンドリックス、
エリック・クラプトン、
ビートルズ(ナーク・ツインズ&ジョージ、リンゴと記載されている)、
バーズ、フランク・ザッパ、ストーンズ、ドノヴァン、ジェファーソン・エアプレイン、
ロバート・ジマーマン(ボブ・ディラン)――。
影響を受けたミュージシャンの名前が七十とちょっと羅列されるなかに、
細野はカナダの政治家(レスター・B・ピアソン)や
イギリスの画家(ジョージ・ロムニー)の名が混じっているのを見つけた。
そしてそういった強固な土台を自分たちも築かなければならないと考えた。
音楽的なものだけではない、
自分たちの本質的なルーツと言える土台を。
(門間雄介『細野晴臣と彼らの時代』2020年、文藝春秋、pp.98-9)

 

2013年に亡くなった著名な民俗学者、地名学者で
作家、歌人でもある谷川健一さんと対談する機会があったとき、
対談本番の前に、
谷川さんの著書について感想を述べたところ、
谷川さんがいたく喜んでくださり、
笑いながら、
いまの歌人たちが、じぶんの短歌が掲載された雑誌は見るけれど、
ほかの本をあまり読まないと仰った。
『細野晴臣と彼らの時代』をおもしろく読んでいて、
そのときのことを思い出した。
どのジャンルでも、
個性はだいじだろうけれど、
ほんものの個性があるとすれば、
それは根を持っているということかもしれない。
たとえば、
バッファロー・スプリングフィールドがその例であり、
細野晴臣、大瀧詠一、松本隆、鈴木茂の四人で構成された日本のロックバンド、
はっぴいえんど、
ということになるだろう。

 

・天高し千歳の農の仕事かな  野衾

 

和気あいあいの議論

 

何ゆえに水田における稲作を中心にしたのか、
さきほども申しましたように大陸においてはいろいろな農作物があったにちがいない
のに、
日本においてはどうして水稲を選んだのであろうか
ということを問題にしたわけでございますが、
わたくし自身としては、
当時の日本では割合に現在よりも湿地が多かった
ということは地形史の方からもいわれておりますし、
おそらくはそのような自然現象、環境を利用したということと、
これはおしかりを受けるかと思いますが、
水田において稲を作ることが当時としては割合に安定度の高いものであったので、
それでそういう結果になったのではないかと
わたくしはひとりでそのような判断をしているわけでございます。
いずれにしても、
弥生時代というものは、
稲を作ることが水田においておこなわれたということで、
もう一つ特徴づけられると思います。
(柳田国男・安藤広太郎・盛永俊太郎ほか『稲の日本史 下』1969年、筑摩書房、p.69)

 

引用した箇所の発言は、
1947年の静岡県登呂遺跡発掘調査において中心的役割をはたし、
明治大学で教鞭をとられた杉原荘介。
発言自体は、
昭和35年10月15日で、
いまから60年以上前のことであり、
現在の知見からいえば、
古びたところがいろいろあるかもしれない
けれど、
この本のおもしろいのは、
参加者それぞれが専門領域を持ちつつ、
けっこう自由に、ばちばちと議論をたたかわせていること、
ときに笑いが起きたりもし。
柳田國男が安藤広太郎に向かい、
「先生があまり本ばかり、
テキストばかりに重きを置きすぎることに抗議します。(笑声)」
と発言しているところなど、
柳田さんの口吻を想像して楽しくなります。

 

・稲刈りの父九十の齡かな  野衾

 

記憶の知恵

 

山に藤の花が咲く頃、農家では田んぼに水を引き入れます。
前もって耕していた田んぼに水を入れ、
代《しろ》かきをして田植えの準備をするためです。
藤の花は温まった沢の水を吸って咲きます。
山際の用水路のほとりにはめっきり少なくなったサワオグルマの花が咲きました。
白い綿毛をもった葉に包まれて黄金色に咲く様は、
ヤマブキの花と並んでこの季節、
黄色い花の代表です。
藤、サワオグルマ、ヤマブキと、
この花たちが咲き競えば、
田んぼの中で稲の根が伸びられる水温になった証拠です。
少し遅れて山には赤い山つつじが咲きます。
つつじの別名は「さつき」です。
農家では田植えのことを「さつき」と言います。
山のつつじは背丈が低くて遠くからは見えにくいけれど、
大きな木にからまる藤は遠くからでも良く見えます。
だから田んぼに水を引く目安になるのです。
(鈴木二三子『里山の言い伝え お天気小母さんの十二ヶ月』嶋中書店、2005年、pp.37-8)

 

著者の鈴木二三子(すずき ふみこ)さんは、
福島県西会津町で農業を営む方。
明治生まれの祖父から自然観察による天気予報を学んだそうです。
まえがきには、
「祖父もまた、その祖父から教わってきたに違いありません」
と記されています。
ここに、
幾千年、営々と行われてきた農業の知恵が育まれているのでしょう。

 

・稲揺らし連れ立ちてゆく秋の風  野衾

 

日々の木簡をつなぐ

 

拙著『文の風景 ときどきマンガ、音楽、映画』の「はじめに」の最後
に、
「アタマから読む必要はまったくなく、
開いたところ、
目にとまった箇所を読んでいただければうれしいです」
と書きました
が、
それをことばのあやでなく実現する
ためには、
どうしてもコデックス装にする必要がありました。
上製本の背のボール紙を外し、
どのページも水平まで開くようにする。
かつ、隣り合わせのページとページが離れないように、糸でかがる。
そうやってできた今回の本を、
あらためて読んでみ、
あることに気が付きました。
一日一日の日記は、
ページを跨いでいる場合もありますが、
一ページにちょうど収まっているものもあります。
ある日の記事が右にあり、
翌日の記事が左にあり、
それが糸で結わえられ、つながっている。
あ、
これって木簡みたい、
って思いました。
毎朝四時に起きてパソコンに向かい、サッと書いたり、うんうん唸って書いたり、
しても、
書いて電源を落とせば、
朝一番の仕事は終り。
この時点で、
つぎの日の朝、何を書くかは、全く予想していない。
一日と一日のつながりは、
わたしは分からないし、だれにも分からない。
なのに、
一冊の本ができて、
水平に開いたページとページを比べ眺めていると、
ページをつないだ糸と同様に、
ページの背後にある精神と精神のつながりがぼんやり見えてくるような、
そんな気がしてきます。
面白いことだと思います。
じぶんの書いたものがじぶんのものでない。
「冊」の字が、
紐でつながれた木簡を表す象形文字であることに、
合点がいきました。

 

・記紀万葉記録どよもす稲つるび  野衾

 

語りの妙

 

現在埋め立て新田が、
一望ほとんど見はるかすことのできないような広い面積を機械的に
一遍に灌漑しておるのを見つけておりますために、
昔の日本の本田の耕作の仕方について、
あるいは疑ってよく知らない人が、
山村の人以外にはあるかもしれませんが、
小さな本田で上から落ちてくる水を順々にうけて、
なるべく上から無駄なしに使わせるという溝道灌漑が、
おそらく総面積の半分も、
三分の二も
占めておった時代があるのじゃないかと思います。
(柳田国男・安藤広太郎・盛永俊太郎ほか『稲の日本史 上』1969年、筑摩書房、p.79)

 

引用した箇所の講演は、
柳田國男が昭和28年2月に行ったもの。
わたしがまだ若いころ、
筑摩書房の柳田國男全集を片っ端から読んだ時期がありました。
いま改めて稲の歴史に興味が湧き、
古書で求めた『稲の日本史』を読んでいるところですが、
内容もさることながら、
語り口調がいかにも柳田さんで、
棚田の水が上の田から順々に、ちょろちょろと、下の田へ落ちてくるような、
そんな呼吸を懐かしく嬉しく感じます。

 

・天と地とこの壮大の稲つるび  野衾

 

ヘビ楽しぐ

 

今週月曜日、秋田魁新報(あきたさきがけしんぽう)文化欄に、
拙稿「青大将のこと」が掲載されました。
青大将は、
日本に棲息する大型の無毒のヘビで、
映画「若大将シリーズ」に登場する田中邦衛演じるところの石山新次郎のニックネーム
ではありません。
さて、
拙稿を読んだ秋田県男鹿市在住の義理の叔父から電話があり、
記事の内容にまつわる共通の思い出についてあれこれと。
今月82歳の誕生日を迎えた叔父は、
毎朝散歩をしていて、
このごろ宵待草を見たそうで。
六日の朝、散歩をしていると、道端に叔父が見つけた宵待草が咲いていて、
そこにヘビがいた。
コンビニで新聞を買って開いたら、
そこに「青大将のこと」。
細部が違っているかもしれませんが、
おおよそそんな話で、
叔父は不思議な符号を感じたようでした。
「八十二歳になって、これからもヘビ楽しぐ暮らしたいど思ている」
という叔父は、
間髪を入れずに、
「ヘビと言っても、蛇でなく、日々だぞ」
電話口で、叔父と二人、大笑いしたのでした。

 

秋田魁新報に掲載された拙稿は下記のとおりです。

 

わたしが小学四年生、弟が一年生。ふるさと井川町は、そのころはまだ村で、それぞれの町内を部落と呼んでいた。井内部落の運動会に、わが仲台部落も参加。いまは井内農村公園と名称が変わった高台にある運動場で、大人も子供も青空の下、歓声をとどろかせた。各種の競技がある中で、林檎の皮剝《む》き競争というのがあった。時間内に、いかに長く皮を剝けるかを競う。その競技に、祖母が出場した。どうなることかと胸を高鳴らせ見ていたが、祖母は、剝きはじめから最後まで、途中一度も切らすことなく優勝。剝いたリンゴの皮を高々と上げて見せたが、そのとき、重さに堪えかねたのか、摘《つ》まんだ指先10センチほど下のところから、ぷつんと皮が切れ、地面に落ちた。その後につづいた些細《ささい》なことがなければ、この事実を記憶していたかどうか分からない。
運動会が終わって自宅に帰った。何でも機敏な母は、いち早く家に入り、着替えをしに奥の寝室に向かった。ほどなく、布《きれ》を引き裂くような悲鳴が聞こえた。わたしと弟が駆けつける。見れば、畳の上に大きな蛇がとぐろを巻いていた。家の主《あるじ》然とこちらを見ている。目が合った気がした。母は色を失ったまま身じろぎひとつしない。父が飛んできて、すぐに蛇を捕《つか》まえ、外に出て行った。父のことだ。すぐに殺して、積み上げた杭《くい》の上にでも放ったのだろう。鳶《とび》に食わせるつもりで。

◆

勤めていた東京の出版社が倒産し、仲間二人と横浜で出版社を起こして2年が過ぎた平成13年、5月に祖父が亡くなった。新盆《にいぼん》の帰省の折、朝、鶏小屋に卵を取りに行った母が血相を変えて家に飛び込んできた。青大将が鶏の卵を飲み込んで喉《のど》を膨《ふく》らせ、小屋の中に陣取っているという。父が飛び出し、しばらくすると、太い、長すぎる青大将のしっぽをつかみ、こちらで見ている家族、親戚の者に、これ見よがしに差し出してから、ぐるんぐるんと車輪のごとくぶん回したかと思いきや、庭先のコンクリートに青大将の頭を叩きつけた。飲み込んだ卵とともに、頭が破裂し、派手に黄の色が飛び散った。少しやり過ぎではないかと、そのときわたしは思った。
それから6日過ぎた8月21日、父は大型機械に乗っていて大けがをし、瀕死の重傷を負った。産業廃棄物の集積場に持ち込まれるゴミをバックホーで均《なら》しているうちに、堆積《たいせき》したゴミの塊《かたまり》の上に乗り上げ、機械ごと崖下に転げ落ちたのだ。頸椎《けいつい》を損傷し、数ミリずれていたら、半身不随になるところだったと医者に言われたらしい。退院してしばらく経《た》ってから、蛇の祟《たた》りではないかと、冗談でなく父に電話で尋ねた。蛇は不死だというよ、父さん…。あれが蛇の祟りなら、これまで何十回祟られて、いま生きているはずもないと、父に窘《たしな》められた。

◆

ふるさとに帰れば、雨や雪で外出ができない日以外は、だいたい近くを散歩する。五月の晴れやかな日、妻と連れ立ち、井内から大麦方面へてくてく歩き、せせらぎに誘われるように川岸に近づいて、コンクリートで固められた幅30センチほどの徑《こみち》をそろり進んでいたとき、妻がギャッと叫んだ。見れば、青大将がコンクリートの上でとぐろを巻いている。大丈夫だよ、かかってこないよ、ジャンプするさ。ためらっていた妻は、あきらめたのか、エイッと跳んだ。わたしも後につづいた。跳んでいる最中、時間にすれば、おそらく一秒もないぐらいであったろうが、変な気に襲われた。

◆

47歳のとき、酒を飲んでから近所の子供と遊んでいて転倒し、しこたま左の肩を打った。鎖骨《さこつ》遠位端骨折《えんいたんこっせつ》と医者がメモ用紙に書いてくれた。レントゲン写真で見ると、骨が跳ね橋のように離れ、浮いている。ベルトで固定し、半年ほどで骨はくっついたが、しばらくして今度はうつ病を患った。ながく暗いトンネルに入ったようなものだった。家に居て、じっととぐろを巻くように、対象を指し示さぬ意識が剝きだして、ギロギロと。記憶のしっぽを食いちぎり、ただ柱時計ばかりをにらんでいた。
うつ病を患ったことのある詩人から速達の手紙をもらった。原稿用紙に、手書きの文字で、経験を踏まえての親切な処方が記されてあった。それを正しく守り、心療内科に通い、それでも足りなくて、マッサージ師、気功師の門を叩いた。
数年が経ち、ようやく灯《あか》りが見えてきたころ、ながい付き合いのカメラマンが、横浜の拙宅を訪ねてくれた。散歩がてら一緒に外へ出て、コンビニでつまみを買い、帰途について間もなく、カメラマンのH氏が、「三浦さん、アレ」と、川が急曲がりに蛇行する辺りを指差した。見れば、2メートルは優にあるかと思われる青大将が、今井川《いまいがわ》の浅瀬にながながと横たわっている。わたしとH氏は無言のまま、保土ヶ谷橋の上からしばらくその姿を眺め入った。石伝いに蠢《うごめ》く蛇を、目で追いかけているうちに、それまでの結ぼれがゆっくりとほどけ、消えてゆくようであった。

 

・生業は農《なりはひ》が元稲つるび  野衾