ばがくしゃ

 

先日、電話しているときに父の放った言葉。
「ばがくしゃ」は、
馬鹿臭い、馬鹿らしいの意。
齢九十の父は、迷った挙句、近くに住んでいる叔父のサポートもあり、
今年も米を作っています。
しかし、
気力、体力の衰えは、一年前とは比べ物にならないらしく、
また、今年に入り
歩行が難しくなった母を支えながらの懸命に送る日々は、
米づくりをやってよかったのかを反芻する日々
でもあるのでしょう。
わたしから見て何よりも深い喜びの源泉であるはずの米づくりを「ばがくしゃ」と言うのは、
並大抵のことではないと想像されます。
父の子であっても、
父の思いの深さは理解を超えており、
推し量ることしかできません。
まえにここに書いた「なとでもえ」(「どうでもいい」の意)
もそうですが、
父はいま、
生き死にを含め、
深く、深く、
いわば精神のたたかいをたたかっている気がします。
父が少年のころ、
とつぜん死ぬことが恐ろしくなり、
身も世もないほどの体験をしたと、
わたしに語って聞かせてくれたことがありました。
わたしは、
いまの父を励ます言葉を持ち合わせません。
だまって聴くだけ、
寄り添うだけです。
しかし、
逆に、
わたしは父の言葉から、
深く励まされます。
日々、面白いこと、ワクワクすることなど、
そんなにあるものではありません。
それでも、おもしろくなくても、生きなければならない。
忍従し、努力し、行為しなければならない。
父はきょう、
どんな言葉を発するだろう。

 

・風光る瀬戸ヶ谷古墳丘に立つ  野衾

 

『アラビアンナイト』の魅力

 

古典古代の文学作品との類似点に注目すれば、
「シンドバッド航海記」中に
ホメロスの「オデュッセウス」とよく似た場面が描かれていることは
かねてより指摘されてきた。
また、
アラビアンナイト中には、
ローマの劇作家プラウトゥスの作品に出てくるプロットと
まったく同じものが登場する話もあれば、
ヘロドトスが記録した泥棒のエピソードとよく似た話もある。
なお、
このヘロドトスによる泥棒話は『今昔物語』にも収録されている。
インドやギリシア以外にも、
古代オリエントの叙事詩「ギルガメシュ」からの影響も指摘されているし、
コブト教徒を通じて伝わったと思われる古代エジプトの話もある。
ソロモン王伝説をめぐるユダヤ系の話もあれば、
ビザンツのロマンス(恋愛物語)から影響を受けたと思われる部分もある。
時代をくだれば、
ボッカチオの『デカメロン』、
チョーサーの『カンタベリー物語』などにも
アラビアンナイト中の物語と非常によく似た話が入っている。
また、
羽衣説話の系統に属する話(「バスラのハサン」)
のように、
世界中の民話や口承の中に類型を求めることができるものもある。
アラビアンナイトに含まれている個々の物語の発生場所や伝播経路を確定する
ことは困難だが、
この一大物語集はまさに東西説話の宝庫であるといえるだろう。
(西尾哲夫『アラビアンナイト――文明のはざまに生まれた物語』岩波新書、
2007年、pp.39-40)

 

『アラビアンナイト』の魅力を、これでもかというぐらいに、
さまざまな角度から縦横に論じ、紹介してくれてあり、
ふんふん、
うなずきながら、
おもしろく読み終りました。
前嶋信二さんがアラビア語原典(カルカッタ第二版)
から訳された『アラビアンナイト』
(平凡社の東洋文庫に収められている。全18巻。前嶋さんは第12巻まで。
第13巻目以降は、池田修さん。ほかに別巻あり)
が六巻目までで中断しているので、
しばらくあいだが空いてしまいましたが、
ぼちぼち七巻目を開こうかと思っているところであります。
こんかい読んだ西尾さんの本で目から鱗だったのは、
『アラビアンナイト』が、
とくていの誰かが書いた物語というよりは、
東西交流の文化現象とみる方がいいだろうとのご指摘でした。
もともとアラビア語で「物語」を意味するヒカーヤ
という言葉は、
本来、物真似芸を表すそうです。
ちいさいことは気にしない、
おもしろければ何でもいいじゃん、
という伸び伸び広々したところにつよく惹かれます。

 

・新緑や海の青さをあくがるる  野衾

 

『わたしの学術書』座談会

 

詩人の佐々木幹郎さん、東京堂書店の人文フロアを担当されている三浦亮太さん、
こんかい『わたしの学術書』の装丁を担当してくださった中本那由子さん、
装画を担当してくださった市川詩織さんをお招きし、
『わたしの学術書』をめぐっての座談会を行いました。
弊社からは、下野、久喜、わたしの三人が出席。
この本は、
博士論文を春風社から上梓した58名が、
その経緯と今後を含めての、
いわばライフヒストリーをつづったエッセー集ですが、
座談会に出席した方々から、
とても有益なことばをお聞かせいただき、
いろいろな意味で今後の本づくりに役立てたい、
考えつづけたいと強く思いました。
会の模様は、
5月20日(金)発売号の『週刊 読書人』に掲載予定です。
ただ、
二時間半たっぷり、
濃密な話を伺うことができた会でしたので、
ロングバージョンのものを、
いずれ何らかの形でまとめ、ご紹介できればと思います。

 

・春風や自転車を漕ぐ堤まで  野衾

 

葦の字の読み

 

パスカルの「人間は考える葦である」で有名な葦ですが、
わたしが愛用している山と渓谷社のカレンダー『七十二候めくり 日本の歳時記』
の十六候「葭始生《あしはじめてしょうず》」
の写真の下に、
「天に向かってまっすぐ伸びる水辺の葦。
「悪し」を転じて「ヨシ」としたのは好案でした」
とありまして、
へ~、そうだったの~!!
と、
ややビックリ。
てえことは、
くだんのパスカルの名言は、
「人間は考えるヨシである」になる、
か。
我がことを振り返ってみれば、
さほど、というか、
まったく疑問に思わずにこれまで来ましたが、
そんな裏話があったとは。
ところで。
きょうのこの文を書くのに、
山と渓谷社のカレンダーにある文言を引用していて気づいたことがありました。
それは、
「好案」の熟語。
好案?
こうあん?
こんな熟語あったかな?
「妙案」の間違いじゃないかしら?
というわけで、
手元の電子辞書やら白川さんの『字通』を引いてみましたが、
「妙案」はあっても「好案」は出てきません。
ふむ。
山と渓谷社に電話して訊いてみようかな。

 

・春風や奥邃の気の触れ来り  野衾

 

あごひげ!?

 

きのうの出勤時のことです。
自宅を出て、いつものように急階段を下りていくと、
見慣れた白と黒のぶち猫が下から上がってくるのが見えました。
おはよう。
やけに急いでいるじゃないか。
階段の途中で立ち止まり、すれ違うぶち猫を見ると、
きりりと結んだ口の下にちょろり、
ながい鬚のようなものがでています。
わたしがキッと見据えると、
猫は目をきときとさせ、
わたしを睨み、
なんとも言えない緊張した面持ちで階段を上っていきます。
そのときハッキリと確認しました。
それは明らかにトカゲの尻尾なのでした。
猫がトカゲを捕まえるなんてことはふつうでしょうけれど、
ドッグフード、キャットフードが当たり前になっているこの時代、
かわいいとばかりは言えない、
野生を忘れぬ猫の顔に少し感動しました。

 

・崖上の猫うぐひすを見上ぐかな  野衾

 

哲学者だって

 

まず小野小町の有名な歌。

 

思ひつつ寝《ぬ》ればや人の見えつらん夢と知りせばさめざらましを

 

『古今和歌集』の第552歌であります。

 

この場合の「人」は恋人でしょう。
恋の苦しさが詠われています。
片桐洋一さんの『古今和歌集全評釈』でこの歌を目にしたちょうど同じ日、
スピノザの『エティカ』の下のような文章に出くわしました。

 

しかし、注意しなければならないことは、われわれが思想や像を秩序づけるさいに、
常に喜びの感情から行為へと決定されるように、
おのおののものの中で善であるものに注目しなければならないということである。
たとえば、
ある人が自分は名誉欲に駆られすぎていると反省したならば、
それを正しく利用することを考え、
それがどんな目的で追求されなければならないか、
またどんな手段でそれが獲得されうるかを考えなければならない。
だが名誉の濫用、そのむなしさ、人間の移り気、
そのほかこれらに類することを考えてはならない。
このようなことは不健康な心の持ち主のみが考えるのである。
なぜなら野心家は、
自分のもとめる名誉の獲得に絶望するとき、
このような考えによってもっとも多く自分を傷つけ、
怒りを発しながら自分を賢く見せたがるからである。
それゆえ、
名誉の濫用やこの世のむなしさについてもっとも多く慨嘆する者が、
名誉をもっとも多く欲している人であることはたしかである。
しかしこのことは、
野心家にだけ見られることではなく、
不運をかこち、無力な精神をもつすべての人たちに共通なことである。
なぜなら、
貧乏で貪欲な人も金銭の濫用や金持の悪徳について語ることをやめないが、
彼はこのことによって自分自身を傷つけ、
自分の貧乏だけではなく、
他人の富にも不満をいだいていることしか、
他人に示さないのである。
これと同じことであるが、
愛する女からひどいしうちをうけたものは、
女の移り気や偽りの心やそのほか詩歌に言いふるされた女の欠点しか考えない。
しかしこれらすべては、
愛する女からふたたび迎えられるやいなや、
ただちに忘れられてしまうのである。
(スピノザ[著]工藤喜作・斎藤博[訳]『エティカ』中公クラシックス、2007年、pp.430-1)

 

さいごの方に出てくる「これと同じことであるが」につづくくだりは、
なるほどと頷きました。
『エティカ』は幾何学的な証明の手法をもって記述されており、
ときどき、
それって証明になっているか?
と、
疑問に思う箇所がないではないけれど、
嫉妬に関する記述であるとか、上に引用した文章を読むと、
この哲学者も実人生において、
恋に触れ、恋に深く悩んだ人であることが想像され、
それが、記述の方法も含め、
彼のなした哲学と無縁でないことが感じられます。

 

・烏飛び交ふ春暁の明けやらず  野衾

 

手を出さない本

 

どんなジャンルの本にかぎらず、文中にほぼ百パーセント、
関連書籍についての記述があり、
それを読んだら、
いま読んでいる本の理解がもっと深まるのではないかと思わされるものですから、
ついネット書店で検索し、
ポチッと。
それが一冊ならいいけれど、
二冊、三冊、それ以上…。
そうやってどんどん幾何級数的に本が増えていきます。
じぶんの興味関心を一本の木に喩えると、
幹から枝が伸びて、
枝からまた新しい枝が伸び、
その先の枝がさらにまた伸びて、
みたいなイメージ。
寿命が三百年ぐらいあれば、
それでもいいですが、
そんなことはありませんから、
幹をたいせつにし、枝の茂りを一定程度に抑えなければなりません。
興味がもたげてくるのは防ぎようがありませんが、
本を読むには一定の時間が必要ですから、
何を読むかの的を絞るために、
何を読まないかを心して定めることが課題になります。
きみは、それを買ってほんとうに読むつもりか?
読む時間があると思うのか?
その本を読む前に読む本があるのではないか?
そんな声を聴きながら、
ポチっと押さないこともあるけれど、
かえって力を籠めポチっと、
となってしまうことも間々あります。

 

・閲覧室窓夢うつつの桜  野衾