ばがくしゃ

 

先日、電話しているときに父の放った言葉。
「ばがくしゃ」は、
馬鹿臭い、馬鹿らしいの意。
齢九十の父は、迷った挙句、近くに住んでいる叔父のサポートもあり、
今年も米を作っています。
しかし、
気力、体力の衰えは、一年前とは比べ物にならないらしく、
また、今年に入り
歩行が難しくなった母を支えながらの懸命に送る日々は、
米づくりをやってよかったのかを反芻する日々
でもあるのでしょう。
わたしから見て何よりも深い喜びの源泉であるはずの米づくりを「ばがくしゃ」と言うのは、
並大抵のことではないと想像されます。
父の子であっても、
父の思いの深さは理解を超えており、
推し量ることしかできません。
まえにここに書いた「なとでもえ」(「どうでもいい」の意)
もそうですが、
父はいま、
生き死にを含め、
深く、深く、
いわば精神のたたかいをたたかっている気がします。
父が少年のころ、
とつぜん死ぬことが恐ろしくなり、
身も世もないほどの体験をしたと、
わたしに語って聞かせてくれたことがありました。
わたしは、
いまの父を励ます言葉を持ち合わせません。
だまって聴くだけ、
寄り添うだけです。
しかし、
逆に、
わたしは父の言葉から、
深く励まされます。
日々、面白いこと、ワクワクすることなど、
そんなにあるものではありません。
それでも、おもしろくなくても、生きなければならない。
忍従し、努力し、行為しなければならない。
父はきょう、
どんな言葉を発するだろう。

 

・風光る瀬戸ヶ谷古墳丘に立つ  野衾