魂と物質

 

ある種の錬金術的観念がキリスト教の教義に著しく類似しているのは偶然ではなく、
伝統的関連によってもたらされた結果である。
王による象徴表現のかなりの部分は、
キリスト教の教義の源泉から生じた。
キリスト教の教義が部分的にエジプト・ヘレニズムの民間信仰
(およびアレクサンドリアのピロンのそれのようなユダヤ・ヘレニズムの哲学)
から生まれたように、
錬金術もそこに淵源をもっている。
錬金術は純キリスト教起源というわけではなく、
部分的には異教的・グノーシス主義的なものに端を発する。
(C.G.ユング[著]/池田紘一[訳]『結合の神秘 Ⅱ』人文書院、2000年、p.12)

 

卑金属を貴金属の金に変えようとする錬金術そのものは
失敗に終わりましたが、
錬金術のながい伝統と歴史の中で培われた
方法、思考は、
多方面に影響を与え、
たとえば現代化学の目覚ましい進歩は、
錬金術を抜きにしては考えられないようです。
また、
ゲーテやニュートンも、
錬金術にのめり込んでいたとのこと。
目に見えない魂の神秘を、
目に見える物質を通じて顕現させようとする人間の欲望、
業のようなものを感じます。

 

・奥入瀬や旅路の果ての霧深し  野衾

 

ジーンズメイト

 

朝、パソコンを立ち上げたら、
ジーンズメイトが渋谷から撤退すると、ニュースになっていました。
若者の賑わいが減ったことが原因のようです。
原宿も客足の戻りが鈍いのだとか。
そのニュースに目が行ったのには、理由がありまして、
朝9時過ぎになると、
ジーンズメイトから毎日メールが届くのです。
二年ぐらい前になりますか、
横浜のジーンズメイトで買い物をした際、
店員がわたしのスマホをいじり、
そのように設定してくれました。
獲得ポイントの高さに惹かれ、「いいですよ」と応えたことによるもの。
というわけで、
メールの文面を見なくても、
「あ、ジーンズメイトだ」
となるわけです。
東京商工リサーチの記事によれば、
ジーンズメイトとしては、
これからは、
郊外と地方に商機がある、との公算のようです。
利用者としていえば、
それがいいのじゃないでしょうか。

 

・暁闇のコーヒー苦し霧深し  野衾

 

『竹光侍』

 

会社が22期に入りまして、
これを機に、
社内に置いてあるじぶんの本を少し片付けていましたら、
松本大洋の『竹光侍』が出てきました。
主人公の瀬能宗一郎(せのう そういちろう)は、
天才的な刀の使い手でありますが、
おのれの中に棲む鬼を封じ込めるために、
真剣を質に入れ、
ふだんは竹光を持ち歩いています。
一巻目を読みはじめて間もなく、
生きて蠢くものたちをとことん凝視し、
その生態の核心をつかむことに異様に集中する瀬能が、
蝶になって宙を飛ぶ姿に呆れ、唖然とし、
これは傑作!
と感じました。
なぜそう感じたかといえば、
この物語は、
主人公についてもそうですが、人間の無意識に光を当てている、
と思われたからです。
無意識は、
意識できないから無意識ですが、
東洋へ来れば、阿頼耶識とよばれたり、
日本ではそれを「鬼」とよんだりするのでしょう。
画がまたすごい!
絵師・松本大洋の面目躍如。
原作は永福一成。
マンガが先にあって、小説が後のようです。

 

・日照雨(そばへ)して秋の光を湛へたり  野衾

 

ゲーテの精神

 

今や、彼はあと数年もすれば八十歳に手が届こうとしている。
しかし、探究や体験に飽きることはあるまい。
どんな方面においても、彼はとどまることを知らない。
彼は、つねに前へ、前へと進もうとする。
たえず学びに学んでいる。
そして、まさにそのことによって、
永遠にいつも変らぬ青春の人であることを示してくれるのだ。
(エッカーマン[著]/山下肇[訳]『ゲーテとの対話(下)』岩波文庫、1969年、p.80)

 

ゲーテの自宅に日参し、ともに語らい、
ゲーテから絶大な信頼を得ていたエッカーマンの言葉だけに、
印象深いものがあります。
つねに前へ、前へ、
学びの精神を学びたいと思います。

 

・日照雨(そばへ)していよよ遥かの秋の空  野衾

 

すゑひろがりず

 

十月に入りました。
そのこととまったく関係ありませんが、
このごろテレビでときどき目にするすゑひろがりずの二人が、
きのうは、クイズ番組にでていて、
とくに面白いことを言っているわけではない
のに、
つい笑ってしまいました。
この二人を見ると、
なんとなく楽しく、また、うれしい。
初めて見たとき、
英語をおかしな発音で唱えるネタに、腹をかかえて笑いました。
漫才を見て、あんなに笑ったのは、
おそらく初めてのこと。
可笑しすぎて、
呼吸するのが苦しくなったほどです、ほんと。
二人とも、まず顔がいい。
顎がドシッと安定していて、ゆるぎない。
神経質そうな感じがしない。
洟を垂らしたむかしの田舎の子どもをそのまま大きくして現代に持ってきた感じ、
とでも言ったらいいでしょうか。
そういう印象をもちますので、
袴姿はよけい似合っている気がします。
目が離せません。
さて、きょうから弊社は二十二期。
すゑひろがりを期し、
これからもどうぞよろしくお願い申し上げます。

 

・日照雨(そばへ)止みものみな露を宿しけり  野衾

 

内村鑑三の好きな花

 

きょうで九月も終わり、明日からは十月。
猛暑酷暑がつづいた夏がようやく終わり、日に日に秋めいてきました。
夕刻、外では虫たちがいい声を聴かせてくれます。
ふと、
内村鑑三の言葉を思い出しました。
秋の花では、紫リンドウが好きだという。
ひげの写真が印象ぶかく、
写真だけでなく、
文章からも厳めしい感じを受けもしますが、
紫リンドウについて書かれた文章から、
人事に疲れた内村が、
紫リンドウの花を見てどれだけ慰められたかを思わずにはいられません。

 

・ながむればうつろひにけり秋の空  野衾

 

ゲーテさん、納得!

 

「へえ、」とゲーテは笑いながらいった、
「恋愛と知性がなにか関係でもあるというのかね? われわれが若い女性を愛するのは、
知性のためではなく、別のもののためさ。
美しさや、若々しさや、いじわるさや、人なつっこさや、個性、欠点、気まぐれ、
その他一切の言いようのないものをわれわれは愛しはするが、
彼女の知性を愛するわけではないよ。
彼女の知能が光っていれば、われわれはそれを尊敬しよう。
またそれによって娘はわれわれにとって無限に尊く見えるかもしれない。
またすでに恋に陥っているなら、知性は二人を引きつけておくのに役立つかもしれない。
けれども、知性は、
われわれを夢中にし、情熱を目覚ます力のあるものではないのだよ。」
(エッカーマン[著]/山下肇[訳]『ゲーテとの対話(下)』岩波文庫、1969年、p.39)

 

さすが、齢70を過ぎ、18歳の少女に恋したゲーテの面目躍如。
美しさや若々しさを愛するというのであれば、
ふつうの話でしょうけれど、
いじわるさや欠点や気まぐれを愛するというのは、
経験が言わしめる言葉なのでしょう。
ちなみに上の引用文の7行目「尊敬しよう」には、訳文に傍点が付されています。

 

・陰を連れ只管に行く秋の雲  野衾