椅子の位置

 

不世出の天才ピアニストとして著名なグレン・グールドは、
天才にふさわしく、
いろいろ奇想天外なエピソードに事欠かなかったようですが、
椅子の高さを微調整するのに三十分もかかり、
オーケストラをほったらかしにして指揮者を怒らせた、
なんていうのもあります。
このごろはグールドをあまり聴かなくなりましたけれど、
椅子のエピソードはちょくちょく思い出します。
というのは、
家で本を読むとき、
一人掛け用ソファーに深く腰を掛け、オットマンに両足をのせてのスタイルが多いのですが、
座ったとき、
ソファーの右手にある本棚との距離がいつも気になるからです。
グールドは、
腰掛ける椅子の高さが気にかかったようですが、
わたしの場合は、
高さでなく、本棚との距離、それと、東に切ってある窓に向かう椅子の位置と角度。
なんだか神経質な気がして、
そんなの気にしなくてもいいじゃん、
と、
気になるこころを我慢することも間々あるのですが、
我慢していると、
我慢していることが気にかかり、
とても本を読むどころではなくなり、
けっきょく、
じぶんが安心する位置と角度をさぐることになります。
そんなときです、
グールドがふと頭をよぎるのは。

 

・業果つや底へ底へと虫の声  野衾

 

あれから20年

 

しばしば述べたとおり、物語は小説と違うのであり、
物語のなかでもとくに物語的な『源氏物語』は、小説的な統一性をほとんど志向していない。
もし『源氏物語』に統一性を求めるならば、
それは、
現実生活どおりの統一でなくてはなるまい。
つまり、現実生活と同じ構造において、
周辺的な事象までこまごまと書いてゆくのである。
それは、中心的な主題から、ひどく遊離しているようにも見える。
しかし、
主題に直接関係しないことを書いてゆくのは、
じつは、主人公の生活を、いっそう広く深く暗示することになる。
主人公について一切を描きつくすことは、どうせできない相談なのだから、
周辺をこまごま書くことにより、
描かれない中心部分にも主人公の生活があることを暗示するのである。
(中略)
短篇物語の集積と見なしうる『源氏物語』は、
全体的な筋立てにおいてもいちじるしく無限定的だが、
それは、
この作品がもっとも物語的な性格をもつ物語であり、
物語の史的展開において頂点をなすものだという意味において理解されるべきだろう。
(小西甚一『日本文学史』講談社学術文庫、1993年、pp.69-70)

 

まもなく新しい『春風新聞』(第30号)が発行されますが、
ちょうど20年前、
『春風新聞』の前誌ともいえる『春風倶楽部』第6号の特集を、
「〈ものがたり〉の可能性」とし、
エッセイをお願いしたのでした。
ご執筆くださったのは、
谷川俊太郎、田口ランディ、山田太一、吉増剛造、中沢新一、しりあがり寿、
ウペンドラの七氏。
いま思い出せば、
特集のテーマを設定するにあたり、
小説と物語のちがい、
さらに物語の広がり、深さ、不可解さがわたしの胸にあって、
諸氏に尋ねてみたくなり、
原稿をお願いしたように記憶しています。
あの時点で小西さんの『日本文学史』を読んでいれば、
きっと小西さんにも原稿をお願いしていただろうと思います。

 

・金秋を来りたはむる雀かな  野衾

 

キーンさんと小西さん

 

ところで、作り物語は、一般的にいって、小説とたいへん違った特性をもつ。
それは、
小説が人生の「切断面」を描くものであるのに対し、
物語は人生の「全体」を述べるものだという点である。
つまり、小説は、
長篇小説にもせよ短篇小説にもせよ、
作者の描こうとする中心があり、
それを適切に描き出すため、いろいろな周辺的事実を配置してゆくのだが、
物語は、むしろ、
周辺的な事実をこまごま書いてゆくことが本体なのである。
構想の緊密な統一を要するはずの短篇物語においてさえ、
主題がどこに在るのかわからぬような散漫さが、
常に平然として存在する。
小説ならば、失敗として非難されるであろう無統一性が、
物語においては、かえって本来の性格となる。
小説をよむときの批判基準は、物語に適用できないのである。
(小西甚一『日本文学史』講談社学術文庫、1993年、pp.56-7)

 

この三連休、読みたい本が何冊かあり、計画を立てて朝からせっせと読みすすめ、
ほぼ計画どおりに読みすすんだのは良しとすべきですが、
三日目のきのうに至り、
さすがに、
疲れた。くたびれた。呆けた。
そうか。いいこと思いついた。そうだ。そうしよう。
夕刻風呂に入り、
湯舟につかっていい湯だな。
っと。
これでよし(なにが?)
風呂から上がり、乾いたタオルで体を拭き下着を替え。
さて。
和室にある文庫本の棚をひょいと見たら、
小西さんの本。
そうか。
この本まだ読んでなかったな。
ぶ厚い五冊ものの『日本文藝史』を読んだので、
小さいのはそのうちに、
なんて思って済ませていたのでした。
ちょうどいい(なにが?)
これにしよう。
と。
いきなり小西節全開! 抜群に歯切れがよい。
ドナルド・キーンさんと小西さんの縁をつくっただいじな一冊。
キーンさんはこの本の旧版(弘文堂「アテネ新書」の一冊として昭和28年刊)
を読むまで小西さんを知らなかった。
旧版のこの本を読んで感動し、
それがきっかけで小西さん本人の自宅を訪ねたことが、
講談社学術文庫版の解説に書かれています。
これがまたキーン節全開で。

 

・ゆかしきは風止む底の虫の声  野衾

 

本を読む人々

 

なぜ人は、大きなスクリーンで動きまわる人間たちを見るのではなく、
本を読むのか。
それは本が文学だからだ。それはひそかなものだ。
心細いものだ。
だが、われわれ自身のものである。
私の意見では、
本が文学的であればあるほど、
つまりより純粋に言葉化されていて、一文一文創り出されていて、
より創造力に満ちていて、考え抜かれていて、
深遠なものなら、
人々は本を読むのだ。
本を読む人々は、とどのつまり、
文学(それが何であろうとも)好きな人々である。
彼らは本にだけあるものが好きなのである。
いや、
彼らは本だけがもっているものを求める。
もし彼らがその晩映画を見たければ、きっとそうするだろう。
本を読むのが嫌いなら、きっと読まないだろう。
本を読む人々はテレビのスイッチを入れるのが面倒なわけではないのである。
彼らは本を読むほうが好きなだけだ。
そもそも本を読まない人々に気に入ってもらおうとして
何年も苦労して本を書く
などということ以上に悲しい試みがあるだろうか。
(アニー・ディラード 著/柳沢由実子 訳『本を書く』田畑書店、2022年、p.61-2)

 

そのとおり、と思いました。
わたしがそのことをふかく知ったのは、
親しくしている近所の女の子たちとの会話からでした。
あれは、
ふたりがまだ小学生だったころのこと。
いまの子たちですから、
ふつうにいまどきの遊びを楽しんでいました。
あるときわたしはふたりに聞きました。
「どうして本を読むの?」
間髪を容れずにおねえちゃんが「本は別だから」
妹は頷いています。
テレビはテレビ、ゲームはゲーム、スマホはスマホ。
それと本は別。
そうか。
その後、二人が読んでおもしろかったという『メアリー・ポピンズ』のシリーズと、
『ドリトル先生』のシリーズを読んだのでした。

 

・けふの日の賑はひ遠し虫の声  野衾

 

声が聞こえる

 

書かれた言葉は弱い。多くの人は人生のほうを好む。
人生は血をたぎらせるし、おいしい匂いがする。
書きものはしょせん書きものにすぎず、
文学もまた同様である。
それはもっとも繊細な感覚――想像の視覚、想像の聴覚――
そしてモラル感と知性にのみ訴える。
あなたが今しているこの書くということ、
あなたを思いっきり興奮させるこの創作行為、
まるで楽団のすぐそばで踊るようにあなたを揺り動かし夢中にさせるこのことは、
他の人にはほとんど聞こえないのだ。
読者の耳は、
大きな音から微かな音に、
書かれた言葉の想像上の音にチューニングされなければならない。
本を手に取る普通の読者には、はじめはなにも聞こえない。
書いてあることの調節状態、
その盛り上がりと下り具合、
音の大きさと柔らかさがわかるには、
半時間はかかる。
(アニー・ディラード 著/柳沢由実子 訳『本を書く』田畑書店、2022年、p.59)

 

以前、中井久夫さんの本を読んだとき、
翻訳をするときには、
原著者が日本語を話せるものと想像し、その声を聴くようにして日本語にする、
という主旨の文章に目がとまりました。
柳沢由実子さんが訳されたアニー・ディラードの文章を読むと、
アニー・ディラードさんの声が聞こえてくるようです。
本を読むことは、
文字をとおして、それを書いた人の声を聴く、
ということになりそうです。
そのためには集中することが必要
になりますが、
集中しようと意図して集中できるものではありませんから、
集中のカミサマが下りてくるように、
場をととのえなければなりません。
紙の本は、
そのためにもある気がします。

 

・白雲のたつ果て知らず今朝の秋  野衾

 

風景うごく

 

子供のころ、外をぼうっと眺めていて、祖母に注意されたことが何度かあります。
ぼうっと何かに見とれているうちに、
気が触れてしまうと祖母は思ったかもしれません。
田舎のことですから、
そういう言い伝えがあったのかもしれず。
柳田國男の『故郷七十年』に、
それに似たエピソードが紹介されていて、
驚いたことがありました。
ともかく、
そういう癖も、
三つ子の魂百までのことわざどおりで、
いまとなっては、
だれも注意してくれるひとがありませんから、
以前にも増して、ただ、ぼうっと眺めているようです。
じぶんでそのことに気づくのは、
風景が動くから。
ぼうっと、また、じっと眺めている風景の画のどこか一点がほんの少しだけ動く、ズレる。
それでハッと我に返る。
うごいたものに眼をやると、
そこにいのちを宿したものが蠢いている。
枯れ落ちる一葉であることもあるけれど。
急ぐなよ。
先だって、
外出した折、坂の途中でしばし立ち止まりました。
風が気持ちいいのでそうしたのでしょう。
立ち止まった動機が今いち思い出せません。
どれぐらいの時間そうしていたのか。
と、
風景がうごいた気がした。
見ると、
樹上に赤茶けた、細く、長い蛇が、頭をもたげていた。
幹でなく、枝と葉にくねる体を絡ませて。
崖に生えている樹ですから、
坂の上からよく見えます。
こんな大きな樹の上までよくぞ這い上がったな。
とおくジオラマの風景のなかを横須賀線下り電車がすべっていった。
またぼうっとしていたようです。

 

・夢かとぞ問ふひともなし虫の声  野衾

 

ピンクのランドセル

 

朝、ツボ踏み板を踏みながらの体操は約三十分を要します。
五年程前に始めたときは、
痛くて、脂汗がにじみ、
三十分はおろか、十分踏むのもやっとの状態でしたが、
必死に痛みをこらえ、つづけているうちに、
いまは鼻唄交じりでも、本を読みながらでも、できるようになりました。
げに継続は力なり。
鼻唄を歌わず、本を読まない場合、
要するに、
ただツボ踏みに専念するときがいちばん多いわけですが、
痛くないので、
意識が足裏に向かうことはなく、
ここ山の上から、
季節ごとの風景を眺めるのが楽しみの一つ。
ツボ踏み板の上で、踏みながら体を回転させるやり方もありまして、
まるで自力の回転展望台。
しずかな動画がくり広げられます。
カラスが飛び、ハトが飛び、たまにアオサギが飛び。
スズメの子らが五羽六羽、
遅れて一羽。
犬を連れてゆっくり上ってくる散歩のおじさん。
めったに見られないけど、
電線の上を台湾栗鼠たちの目くるめくサーカス。
ゴミ出しの日は、
向こうの丘から、手すりをぽんぽんぽんと、可愛くたたきながら階段を下りてくるおばさん。
一日の始まりです。
やがてピンクのランドセル。
数年前に見たときは、
大げさでなく、
ランドセルが生きて、弾けて、坂を下りていくように見えた
(小学一年生になったばかりだったのでしょう。
「行ってきまーす」の元気な声が聞こえ、
その後、ランドセルが揺れて走っていった)
のに、
このごろは、
ランドセルを背負った女の子が、
一歩一歩、ゆっくり坂を踏みしめ下りて行きます。
学校での生活も厚みを増したことでしょう。
山の上から見下ろすのは後ろ姿だけですから、
顔が見えず、
どこに住んでいる娘さんか、まったく分かりません。
だから、よけいに、
ランドセルと娘さんの対比が日々の記憶に刻まれていくようです。
歳月は確実に過ぎてゆきます。

 

・正面に黒猫のそり秋来る  野衾