コットンクラブで知り合い、わたしが兄貴と慕っているナベちゃんは、わたしと一日ズレて歯が痛みだし、夜、眠れず、体を真横にすると血が頭のほうに上って歯が痛み出すことを発見し、枕を高くして頭だけグッと前に傾け寝たそうだ。が、そんな格好では全然眠れなかったとか。歯ばかりか首まで痛くなった…。
「三浦さんが歯が痛いって言った次の日だもんな」
「そりゃあナベちゃん、親の血をひく兄弟よりも、ってやつでさ」
「だって歯の痛いのまで同じってことはないでしょ」
「そうね。不思議だね…」
煙草を斜めにくわえ二人の会話を黙って聞いていたコットンママが、あの低い張りのある声で、「ほら俗に言うじゃない。歯、目、なんとかよ」。
ナベちゃんとわたし、目を合わす。要するにそういうことなのだ。男も齢50に近づくとあちこち故障が出てくるということで、その筆頭が歯ということなのだろう。目は今のところ相変わらずの近眼だが、これも時間の問題で、やがて老眼が加わるだろう。コットンママが「なんとか」と言った「なんとか」は衰え未だしの感もあるが、これだって分かったものではない。男の仕事は50からだと、何人かの先輩から聞いたことがある。経験と知恵を生かした良い仕事ができるのは50からか、よし、それなら頑張ろうと思った。今でもちょっとは思っている。が、今回のこの歯の一件により冷静に考えてみるにつけ、メラメラと体を焼くような煩悩が衰えることによって、はじめて仕事に集中できる、仕事ぐらいしかすることがないという境涯もあるだろうかと思えてきた。寂しいけれど仕方がない。「神経が暴れている」と言った歯科医の言葉が妙なリアリティーを帯びてくる。老いへ抵抗するやぶれかぶれの神経が今の自分の姿なのだろう。自虐的なわけではなく。
愛用している手帳(高橋書店 No.78)を、自分では割と使っているほうだと思う。一番使うのは住所録かな。あと、絶対忘れてはならない約束や、記録しなければ忘れてしまいそうな言葉は意識して書き込むようにしている。手帳ってそれぐらいでいいのではないかとこのごろ思う。
アイディアを含め何でもかんでも記録しておくのがカッコいいと思った時期もあったが、書いた時点で固定されるような気がして嫌になった。面倒臭くもあるし。頭に浮かぶもろもろは電光石火だし、善悪美醜の判断もままならず、スピードだって自分の頭なのに、おれ、何を考えているんだろうと思うぐらいのものなのだ。下心だってある。そういう火の玉の彗星状アイディアをそのままに遊ぶほうがたのしい。手帳を閉じてあれとこれがぶつかる様を眼を開けてジャッジすることは、どこでもできる遊びだ。
鎮痛剤を飲みながら痛みを騙してきたが、痛みの深さというか質が、疲れとか噛み合わせのせいではない気がなんとなくするものだから、かかりつけの医師には申し訳なかったが、セカンド・オピニオンということもあるし、思い切って産業貿易センタービルにある著名なF歯科に行ってみた。
噂にたがわず最新式の設備で、患者への対応も徹底している。予約して行ったのだが、初診なので、レントゲン写真を撮ってもらい、歯全体の状態も診てもらう。
治療はF歯科の副院長があたってくれた。正直な先生というべきなのか、痛みの原因がまったくわからない、という。困り果てているようにも見えたから、わたしの実感を話してみた。以前、別の歯にひび割れを起こした時と痛みの質が似ていることを告げた。そのとき、歯は横にではなく縦にひびが入っていた…。
先生はマスクをしていたから顔の下半分はわからない。が、目の表情が明らかに変わった。「わかりました。原因は今の時点では不明ですが、この歯であることは間違いなく、神経が冒されていることもまず間違いありません。外側からはレントゲンで見てもまったく異常がありませんが、麻酔をかけて上から削って見てみましょう」というわけで、麻酔をかけ、歯医者といえばコレ、という例の機械でジーーーッとやった。「途中、もしも痛かったら左手を上げてください」ジーーーッ。左手を上げる。「もう少し麻酔を加えましょう」顔全体が膨らむような感じになった頃、また例の機械でジーーーッ。左手を上げる。「え? まだ痛みますか。おかしいですね。わかりました。最後に、もうちょっとだけ麻酔を加えましょう」主観的には顔が破裂するかと思われた。ジーーーッ。左手を上げる。「え? おかしいですね。知覚反応があるはずがないんですが…。通常の3倍の量の麻酔をかけています」わたしもだんだん心配になってくる。と、削った歯の中を覗いていた先生が「あっ、割れています。外からはわかりませんが、たしかにひびが入っています。このせいで神経が一部腐っているようです。痛いのは、死に掛けの神経が暴れているせいでしょう」神経を掻き出す器具でグリグリとやったら、死んだ神経が掻き出されてきた。麻酔をかけているのに痛みは頂点に達していた。「今日はここまでしか進めません。麻酔をこれ以上かけても意味がありませんから。明日来られますか?」「はい」、と言うしかない。
処方された鎮痛剤をもらって2時に来社する約束の先生に間に合わせるために、急ぎタクシーで社に戻る。痛みはずっと続いている。来社された先生の話を理解するのに苦労した。と、4時に近くなった頃、痛みがスッと消えた。すっかり。深く病んでいると感じられたその実感も消えた。ああ、治った、と思った。その時から今の今まで全く痛みがないばかりか、軽みまで感じられるようになった。もらった鎮痛剤は使わずに済んだ。数日ぶりにぐっすりと眠った。
スイマセン。またまた歯の話で恐縮なんでございますが、こんなことってあるのだろうか。だったら、いままでの考察、分析(!?)はどうしてくれるのよ。コメントをくださったnoraさん、seikiさん、申し訳ない!
誠に恥ずかしいことながら、痛みの震源地は上顎右最奥の歯でなく、そのひとつ手前の歯であった。完璧思い違い。一番奥の治療した歯だと思うから、まだ芽を出していない最後の親知らずとの接触まで疑ってかかったのに、そも事件の冒頭において判断ミスがあったとは!
きのうの夜、痛いなあ痛いなあ、やっぱり痛み止め飲んでおこうかなあ、と、舌先で痛い歯のあたりを探っているうちに、ん!? もしやと思うところがあり、鏡を持ってきて口を開け、指で痛い歯を探ってみた。ら、な、なんと、違っていた! 一番奥の歯でな〜〜〜〜い!!
ま、そういうことでして。トホホ。でもご安心。痛みが消えたわけではない。が、こいつだったのかあ、と、問題の所在を突きとめたようで少しだけ気分が軽くなった。よーし! 今日は元気で治療に行くぞ。そっちの歯ではなくこっちの歯でした、と、キッパリ言おう! なんか情けないな…。
まだ痛い。歯。医者が、それも美しい女医が、疲労からだと思われますから休める時に休んでくださいと言うから、素直が信条のわたしとしては背骨が痛くなるほど休んだ。眠くもないのに床に臥せっていた。
ところが夜中、猛烈に痛み出して2回分もらった痛み止めの1回分を悔しかったが飲んだ。痛みに敗けたようで情けなかった。時計を見たら3時20分。右の上顎奥の治療した歯が疼いて我慢できない。医者は疲労のせいからだろうと言ったが、それもあるかもしれないが、わたしの読みは、あと1本だけ歯茎に埋まっている親知らずが隣りの歯、すなわち痛み出した歯の根の神経を刺激しているのではないかということ。
わたしの親知らずは5本あった。相当に親知らずだろう。普通、最大でも4本のところ、わたしの場合5本。1本がユリの根みたいにカップリングされた状態の親知らずで、学生の時、大学病院の医者が珍しがった。以来、ことあるごとに親知らずを抜き、ユリの根の下の部分1個を残すのみとなった。それが微妙な動きをして神経に当たっていると思えてならない。なら、そのことを医者に尋ねてみればよかったようなものだが、そのときは思い至らなかった。
歯が1本痛いだけでこのざまだ。右上顎奥の歯を震源地として、頭と顔のどこを指で押してもそれなりに痛い。痛い痛い、あー、痛い! 抜いてしまいたい!
療治した一番奥の歯が痛みだし、虫歯になったのか、それともひびが入ったのか、ん、引いたな痛みが、と思っていると、また急激にズキズキ痛みだし、どうにも我慢がならず、保険証を持って一年ぶりぐらいに掛かりつけの病院へ行った。
予約をとらずに行ったから待つことは覚悟の上だったが、案の定、一時間ほど待たされた。
鼻のてっぺんにホクロのある若い母親が、あやか、こっち座っていなさい、あやか、椅子に座る時はスリッパ脱いでもいいのよ、ほんとね、あやか、おもしろいねこの椅子、でもダメよ、こわれるから、あら、かわいいね、お犬さんの毛がついているじゃない……。
三歳ぐらいだろうか、目のクリッとした丸顔の女の子は椅子に上がったり椅子から下りたり、いそがしい。病院に備え付けの犬の絵本を三十秒ぐらい眺めてみたり、五月蝿いほどではないが、あちこちよく動く。わたしは歯が痛い。
あやか、えらかったねえ。やさしい先生でよかったねえ。虫歯ないって……。
今度はひょろりと水のような印象のおんなが子供二人をつれて待合室に入ってきた。姉と弟のようだ。ちゃんと座っていなさい、と、母が言う。お姉さんのほうが、歯の病気に関する写真入りの啓蒙的な本を持ってきてわたしの隣りに座った。静かに熱心に見ている。と、ヒョイと椅子から下り、椅子に座らずに立っていた母のところへ行き、ある頁を指し示した。虫歯を放っておくとね、と、母は言い、娘は納得した顔でまた元の椅子に戻った。いやな予感がした。ふたりの様子を見ていた弟が姉のところにやってきて、二、三度わたしの膝にぶつかりながら、そんなことは意に介さずに、ぼくも見たい、と言った。ぼくも見たい。見たい。見たい。やさしそうに見える姉は万力のようにふんばって弟に本を貸そうとしない。いっしょに見なさい、と母が言う。わたしは歯が痛い。
もうすっかりあきらめかけた頃、ようやくわたしの名前が呼ばれた。レントゲン写真を撮って調べてくれたが、割れてはいなかった。虫歯にもなっていないという。あやかと同じか。おそらく疲労のせいだろうと医者が言う。休める時に休んでください。神経を抜くのは簡単ですが一旦抜いてしまうと元には戻りませんから、ここは慎重に行きたいと思います。神経過敏になっているようなのでレーザー治療をほどこしておきます、云々。
痛み止めの薬をもらい保土ヶ谷駅に向かう。頭の鉢が割れるかと思うぐらいの雷みたいな激痛が走る。一瞬くらくらした。大きく息を吸ったり吐いたりして何とかごまかしながら歩いているうちに少しは痛みが引いた。いやな感じがした。
サザンオールスターズの「エロティカセブン」に「魚眼レンズで君を覗いて」のフレーズがある。飲む酒の量が度を超すと「君」だけでなく、そこにいる誰も彼も、盃やグラスも、おとこもおんなも、もちろんわたしも、魚眼レンズか凸レンズを通して眺められた様相を呈してくる。ぶよよ〜んと寂しさばかりが強調されることもあれば、自分のことはすっかり棚に上げ、しまい込み、ひとのつまらなさ傲慢さばかりをレンズを通して覗くときもある。そうやって見える景色が真相に近い、と思った翌日は必ず二日酔い。