ベランダ菜園

 専務イシバシと総務イトウが、朝、待ち合わせをして種やら土やら鉢やらを買ってきた。わが社が入っている教育会館のベランダは、なんでだか分からぬがとても立派なベランダで、これまでも盆栽や観葉植物を置いて楽しんできたが、広々としており、まだまだもったいない。というようなことが社員一同の共通認識だから、ついに野菜の種を買ってきたのだろう。
 ふたり黙々と菜園事業にいそしんでいたが、振り返ってみれば(ベランダはわたしの背中側)おおおっ!! コンクリートの灰色を抑え、土と緑の畑ができているではないか。素晴らしい!!
 やっぱり緑はいいねえ! 緑があると気が休まるねえ! なんでなんだろうねえ! 感慨に耽りながら言葉が口をついて出る。すると専務イシバシが「田舎ものだからよ」ピシャリと言った。にべもない。
 それはともかく、まずは二十日大根(はつかだいこん)を植えたようだ。二十日で育つから名付けられたようだが実際はどうだろう。カブの形の赤い大根。予定としては、これからトマトやキュウリも植えるみたい。ちなみに、保土ヶ谷の愛ちゃんはハーブと金魚に余念がない。

共食い

 保土ヶ谷の愛ちゃん(ウチには愛ちゃんがふたりいる!)が夜店で金魚を水槽ごと買ったとかで会社に持ってきた。もうひとりの愛ちゃんは、かつて一年だか一年と半年だか金魚を飼っていたことがあるそうで、保土ヶ谷の愛ちゃんにいろいろ金魚を飼うコツを教えていた。保土ヶ谷在住でない愛ちゃん(ややっこしい)は、金魚を飼っていた頃のエピソードとしてこんな話をした。一年も飼うと金魚はずいぶんでかくなる。あとから小さい金魚を買ってきて同じ水槽に入れ、ひと晩寝て起きたら、あ〜らら、小さい金魚がいない。大きい金魚が小さい新入りの金魚を食ったのだ、云々。
 それでおいらも思い出した。秋田の家の裏に池がある。いまは半分ほどの大きさになったが、もともとはその倍あった。子供の目から見ればどっぷりとした大きな池だった。一年に一度お盆の頃になると父が池を掃除した。子供のぼくと弟はしゃがんで特長(とくべつ長い長靴だから特長、とくなが)姿の父の様子を見ていた。あるとき父は、鯉の数が減っていることを発見! 不審に思った父はさらに池を浚いながらそのわけを知る。訊けば、ナマズに食われたということだった。
 わたしはナマズを食ったこともある。が、どでかいオタマジャクシのようなふてぶてしい顔が目に浮かび、お世辞にも美味いとはいえなかった。

かい〜の♪

 眠っているあいだの行動を人と比べたことがないので確かなことは言えないが、たぶんわたしも人並みには寝返りを打つほうだと思う。ところが、鎖骨を骨折し固定バンドをやってからというもの寝返りを打たない。いや、打てない。正確には、半分だけ寝返りを打つ。布団に入るとき仰向けになって寝る。しばらくすると、どうも居ずまいが悪くなり、折れていないほうの右肩を下にする。そうやって、またしばらくすると仰向けになる。その繰り返し。その間、目覚めているかといえばそうではない。眠っている。だから、これ、無意識ということになる。
 もうひとつ、絶対にできないことがある。背中を洗うことだ。これは無理。亀が自分の甲羅が痒い(というようなことが仮にあるとして)からといって、どうにもできないのと同じように、これは、いかんともしがたい。ひとつ方法を思いついたが、そのための道具がない。ヒントは間寛平(はざま・かんぺい)だ。かんぺいのギャグで昔、柱とか壁に背中を押し付け「かい〜の」というのがあった。あの要領で背中をこする。足裏をマッサージするプラスチックのブラシを風呂の壁に接着すれば、おそらく腕を使わなくても背中を洗うことは可能だ。でも壁に簡単に装着できるマッサージブラシがない。これ、開発すれば特許取れるんじゃないかと思うがどうだろう。商品名:かい〜の♪

宿題

 再校ゲラを自宅へ持ちかえり、せっせと校正・校閲。その甲斐あって、予定していたものを終えた。気分最高。ところが、この仕事をするといつもそうなのだが、頭が固まったような状態になり、話しできなくなる。ボーとして自分でも、あらら、どうしたっていうの、と思うのだけれど仕方がない。集中してやったということだよ、と自分を慰めているのだが、我ながらもう少し早く回復して欲しい。
 台所のコーヒーカップに漂白剤を入れておいたのを忘れてグッと飲み干してしまい、あわてて牛乳を二杯飲み中和、ああ、まだ仕事モードから解放されていなかったのかと思ったものの、よくよく考えてみれば、玄関のドアにカギを掛けたかどうかすぐに忘れて戻るように、単なる呆けだったかもしれない。自分の行動に責任が持てないよ、まったく。

スープカレーといえば…

 保土ヶ谷駅そばの○屋へ行ってスープカレーを食べた。このあいだ店の前を通ったら大々的に宣伝しており、おおっ、ここにも流行の波が押し寄せたかとしばし立ち止まり、以来気になっていた。
 セットのもあったが、初めてのこともあり、一番安い三九〇円のプレーンのにした。ご飯がついてこの値段はけして高くない。味のほうは、唸るほどではないが悪くない。ただ難点は、ジャガイモとニンジンの味がイマイチなことと油が多いこと。ならダメじゃんと突っ込まれそうだが、スープそのものの味はスパイスも効いていて美味しいと思った。辛さは、ポスターに激辛だったか超辛だったか、とにかく凄〜く辛いんだゾと広告していたけれど、これについてはそれほどでもなかった。
 スープカレーといえば、なんといってもマジックスパイス。あれの「虚空」を一度だけ食べたことがあるが、ケツから火を吹くという形容がまさしく当たっていた。思い出したら食いたくなったヨ。このごろは店長の娘、一十三十一がブレイクしているようだ。いちじゅうさんじゅういちって何だ? って思ったら、一十三十一と書いて、ひとみ・とい、と読むんだそうだ。階段登ったと思ったらもう降りたかよ、みたいな名前だ。クレシェンドがすぐにデクレシェンド、とも言える。あるいは超速ドップラー効果ってか。積み木にも見えるな。

笑う哲学者

 木田元さんの新刊『新人生論ノート』(集英社新書)を読んでいたら「笑いについて」の章で「君は哲学者なのによく笑うな」とほかから指摘されることがあるという記述があって爆笑。何度かお目にかかったことがあるが、たしかに木田先生はよく笑う。カニの甲羅を彷彿とさせる二十世紀最大の哲学者ハイデガーの研究家であることを思えば、木田先生も眉間に皺を寄せていると想像したくなる気持ちもわからないではない。
 思い出したのが詩人の山之口貘。金に困ってどこぞの女将に無心に行ったら、詩人が金を借りてはいけないだったか、持ってはいけないだったか、とにかく体よく断られた話を読んだ記憶がある。セレブの詩人というのもあっていいと思うのだが、ちょっとイメージしづらい。詩人=金に困っていても書く詩は凄い、というイメージがいつのまにかできたのだろう。

撮り方ビデオ

 捨てることが趣味になり、さてこれは、あれは、こっちは、そっちは、これからの人生で本当に必要だろうかと考えたら、どうもそうでもなさそうだと思えてきて、捨てる。捨てる。あれも、これも。やり始めたら切りがなくなってきた。
 たとえばだ。いまどき携帯電話で動画も撮れるのに、8ミリビデオ(若い人はもう、こう言ったってわからないのじゃなかろうか)を持っていること自体が骨董趣味かもしれないのに、そのバッグともなると意味不明、今後の人生で役立つとも思えない。さらに、バッグの中をあらためてみると、「撮り方ビデオ いつかきっと見たくなる思い出ビデオ撮影のコツ」なるテープが入っていた。意味ない!
 あれを捨て、これを捨てているうちに、鏡を見ながら自分の髪をハサミで切るサラ金のコマーシャルを思い出した。事前に計画を立てましょうというアレだ。本当にこのまま捨てつづけたら、この部屋に移ってきたときの状態にまで戻ったりして…。(んなこたねえか)
 捨てる直前、文字が書かれていればそれを読んだり、手に持って重さを計ったりしているが、今となってはそれぐらいの価値しかなくなっているものがほとんどだ。へー、こんなものまで、と思うようなものも。