ストレス

 鎖骨を骨折してから二ヶ月がたち、そろそろ飽きて(?)きた。固定ベルトをまじめにしてきたおかげで骨がくっ付き始めたのはいいが、寝ても覚めても移動のときも常に装着、そう、カシャ−ンカシャーン(音はロボットみたいでカッコいい!)と、まさに装着しているので窮屈極まりない。ベルトの構造上の問題で、胸のあたりが始終締め付けられているため、苦しいほどではないが、二ヶ月ずっと装着してきたから、おそらくそのせいだろう、喉のあたりに違和感を感じるようになった。のど飴効かず。なので、おっかなびっくり、デスクワークで体を動かす必要のないとき、社員に気づかれぬように(する必要はないのだけれど)そ〜〜〜〜〜〜〜っとベルトを外し深呼吸をしてみた。むむ。爽快! 清清する。関根勤が千葉真一の物まねをするときぐらいの深い息。ふぅうううううううううっ!! 開っ放っ感っ♪♪
 こころも体も外交も(大きく出た!)なにごとによらず締め付けはよくないということを身をもって認識した次第。(そんな教訓かよ)

めおとピアノ

 海外の音楽を招聘する会社に勤める知人から案内があり、「カメラータ・ジオン(室内アンサンブル)と二人のハイドシェック」というコンサートに、武家屋敷、若頭といっしょに行ってきた。会場のみなとみらいホールまでは徒歩15分。
 連弾のピアノというものを初めて見た。エンジンを搭載すれば前にも後ろにも走り出しそうで、すぐに井上ひさしの近未来SF小説『吉里吉里人』に出てくる改造犬「往ったか来たか号」を連想。わたしだけが初めてなのかと不安になり、武家屋敷に問い質したところ、彼女も初めてとのことで安心(?)。
 ところで「二人のハイドシェック」というくらいだから、二人は夫婦。ヒデとロザンナのようなもの? そう? ちがう? ちがうか。あ、そ。それはともかく、仲の良いところを音で聴かせてくれるのかと思いきや、そうでもない。むしろ、あまり仲が良くないのじゃと邪推したくなる。ていうか、奥さんのターニャさんは夫に合わせて弾いているようなのに、夫のエリック君がどうも変。勝手。わがまま。唯我独尊。そんな感じ。さらに気になるのは、椅子の高さを始終気にして微調整しまくりのご様子。もぞもぞもぞもぞネジをまわしてばっか。このひと痔が悪いんじゃないの? とまた邪推。相当神経質のようだ。
 というわけで、どうも統一された音楽として聞こえてこない。眠くもなる。ふむ、と思いながら第二部に臨むや、第一部はなんだったのと怪しむぐらい今度は俄然音が生き生きしてくる。室内アンサンブルのカメラータ・ジオンとエリック・ハイドシェックの演奏で、奥さんのターニャさんは登場せず。エリック君、なんだかノリノリ。カメラータ・ジオンの面々も煽られたのか気合が入った(みたい)。客席の集中度が一気に上昇。横を見れば、第一部で眠っていた武家屋敷はカッと目を見開き、若頭なんか身を乗り出して聴いている。
 終ってみれば、拍手の嵐。アンコールが1曲で終らず2曲も。エリック君満足げ。ふむ〜。久々のクラシック音楽を堪能した夜だった。

暑ッつ!

 梅雨のド真ん中なのに雨も降らずこの暑さ。やりきれない。というわけで、昼、野毛にある福家(ふくや)にドジョウを食べにいく。開いたドジョウを笹掻きゴボウと煮て玉子とじにした、いわゆる柳川鍋だ。
 ジュージュー、汁がこぼれんばかりの熱熱の鍋から玉子とじのドジョウとゴボウを箸でつまみフーハーいいながら食す。これ最高! ご飯に合うんだな。福家のご飯がまた極上で、品種は分からないが炊き方がスコブル上手い。ご飯粒が立っているだけでなく、白い粒と粒の間から熱い吐息が漏れてくるようで自ずと食欲がそそられる。最後、鍋に残った汁をれんげですくってご飯にかけて食べるのも一興。
 食後、渋いお茶で口をしめ、勘定を済ませると女将さんが黒飴をくれる。一個で足りず二個もらうことも。野毛の坂道を登りながら首筋に当たる風が心なしか涼しく感じられたのはドジョウのおかげか。なんて…。
 野毛山動物園に向かう交差点を右に折れる頃にはドジョウの効力すっかり失せ、日差しがカンカンと、音の出るほど照ってきたのであった。

定期総会

 年に一度の集まりへ、のこのこ出かけた。十四世帯あるから全員集合すればそれなりだが、いつも半分集まればいいほうで、あとは委任状。
 主な議題は第九期決算と第十期予算、あとは空いている駐車場をどうするか、とか、貯水タンクを取り外した後の土地の利用法とか。跡地利用ったって、猫のひたいほどのスペース、花を植えるぐらいが関の山なのだが…。
 分譲マンションというのは長屋の現代版で、たまにしか集まらないけど、集まればなんとなく親近感が湧き、そこはかとなく楽しい。途中出ていった人、新しく入った人もいるけれど、十年前いっしょに説明会に参加した人がほとんどで、十年ひとむかしの言葉どおり、皆それなりに歳とった。当時新婚で入ったご夫婦にその後赤ちゃんが生まれ、今ではお母さんと連れ立って出かける娘の後ろ姿を見かけるようになった。ほかの子供たちもずいぶん大きくなった。
 管理会社の説明によれば、今年か来年かまだわからぬが、近々に大修繕工事をやる必要がありそうだとのこと。仮に一社から見積もりを取ったところ、千二百万円ほどかかるとか。相見積もりを数社から取り、内容充実かつリーズナブルで信頼の置ける会社に頼もうということに決定。
 今年はなんの役にも付くはずでなかったのが、仕事の都合上なかなか捕まらない人がいて、急遽会計の役が回ってきた。十四世帯しかないのにそういう人がいるとほんとに困る。次つぎ何かの役が回ってくる。好きでやる人などいないのに…。ったくよぅ。まぁ、仕方ないかとあきらめた。

高齢化社会

 すごいテーマを掲げたが、実はこういうタイトルの歌がある。好きな忌野清志郎の『メンフィス』に入っている。歌詞は、以下のとおり。
  お前が生まれる前から 俺は俺だぜ わるかったな
  そうだぜ俺は年寄り 世話がやけるぜ すまなかったな Hey Hey
  若い女を紹介してくれ なァいいだろ
  俺の腰をもんで欲しいのさ
  いたわってくれ面倒見てくれ 気を遣ってくれ すまねえな
  忘れんなよこの年寄り 頑固者だぜ わかったな Hey Hey
  若い女じゃもの足りないのさ OH そうだな
  体は良くても わびさび知らねえ
  他の女を紹介してくれ なァいいだろ
  風呂で背中を流して欲しいぜ
  高齢化社会がどんな社会でも 政府の奴らがやってる事じゃ
  どうせ俺とは気が合わないのさ
  俺は口うるさいぜ そうだ 年寄りだからな
 (後略)
 Hey Heyってアンタ。1992年に出たアルバムだから、もう10年以上前になる。CDが出た当時、ただ腹を抱え爆笑しながら聴いたものだが、年々身につまされるようになってきた。ふむ〜、なかなか深い歌詞、と思えるようになった。歌の境涯に近づいたということなのだ老。「若い女が欲しい」と言ったり「若い女じゃもの足りない」と言ったり矛盾だらけ。だってだって「俺は年寄り」なんだからな、みたいな…。清志郎は1951年生まれだから41歳のときにこれを作ったことになる。やはり天才なのだろう。

要注意!

 早朝、テレビを付けたら杏林大学の金田一秀穂(きんだいち・ひでほ)教授が出ていた。京助を祖父に、春彦を父にもつ国語学者一家の三代目。
 なんとなく見ていたのだが、「今の若者は日本語も知らぬ」と言って嘆く大人が日本語を間違って使っているのに出くわすことがよくあるというから、これは聞き捨てならぬと目をひらく。
 教授いわく、「さわりを聞いただけで判断することは…」みたいな言い方をする人がいて、その人は「話の最初だけを聞いて」の意味で使っているようなのだが、それは大きな間違いである。「触り」とは、もともと浄瑠璃用語で、話の中心となる部分、聞かせどころの意味であり、演劇・映画などの名場面、見どころを指すという。へ〜、知らなかったぁ〜! 危ねぇ危ねぇ。
 教授またいわく、何かの席の挨拶で「くじけぬこころをもち流れに棹さして生きていってほしい」みたいなことをおっしゃる方がいるが、言わんとする気持ちは分かるけれど、間違っている。「棹さす」というのは「抵抗する」の意ではなく「時勢・流行にうまく乗る」の意。真逆ではないか! 念のため『大辞林』で調べてみたら確かにそう書いてある。危ねぇ危ねぇ。
 ふむ。ほかにもけっこうありそうだ。謙虚に辞書を引くしかないな。

 梅雨どきですが、この季節の朝もなかなかいい。みずみずしい(そりゃ梅雨だもの)というかなんというか、なんかこう、細胞の一個一個に適度な水分が補給され、みたいな…。
 むかし秋田の実家で馬を飼っていたとき、朝もはよから父は草刈りに出かけ、わたしたちが起き出す頃には帰ってきて、たっぷり水分を含んだ草をドサリと馬小屋の前に下ろしたものだ。もやもやと蒸気が昇る。それを馬が食む。こめかみから頬にかけての血管を浮き立たせ、見ているこっちまで顎が疲れそうなぐらいの勢いで上顎と下顎を臼みたいに擦り合せるのだ。草食動物が目の前にいた。わたしの家の馬だ。馬小屋からは延々蒸気が立ち昇っていた。そういう風景が不意によみがえる。
 首から肩にかけての線、圧倒的な尻と腹、無駄のない筋肉、まるでいのちの爆発に触れるよう、息苦しいぐらいの戦慄が走った。
 「わすれものねがぁ〜?」「いってきまぁ〜す!」

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