生命の機

 今月刊行された『江戸文学』(ぺりかん社)に詩人の飯島耕一さんが「江戸と西洋」のタイトルで文章を書いておられる。その雄勁でのびやかな筆致に誘われるまま、気持ちをひらいて読み進んでいくと、後半の箇所において「わたしがここで手短かにではあるが紹介したいのは、幕末に仙台と江戸で儒学を学び、明治になるとアメリカに渡って、アメリカのキリスト教を中心とするコミュニティ、「新生同胞教団」に入った一人の人物のことである」として、四頁にわたり(!)新井奥邃を取り上げてくださっている。若頭ナイトウは一読、はじめて奥邃がどういう人だったのかわかった気がしますと感想をもらした。
 新井奥邃について、わたしはただ<偉い人>だと思ってきたし、今でも思っている。だから『著作集』の刊行に踏み切った。が、わたしの場合はあくまでも直感。新井の文章を読むには読んだが、系統立てて読んだわけではない。何がそんなに偉いのか、何をしたから偉いと感じるのかと訊かれれば言葉に窮する。なにをしたからということはひとまず置いといて、偉さの中身は言葉ではないかと今は思う。生前の新井を知っている工藤直太郎氏は、新井の文章がどこを切っても血の出る文章だとおっしゃった。面白おかしいことを書いているわけではないけれど、新井の文章は読むとなぜか元気が出るのだ。嘘だと思うなら『著作集』のどの巻でも読んでみてほしい(はい。これは宣伝、でも本当です)。元気の質がほかで得られる元気とちがう。そのことの理由が飯島さんの「天」をめぐっての今回の論考(さらに詩集『アメリカ』と小説『白紵歌』)を読み、新井の文章からの引用と相俟って、わたしもすこし分かった気がした。自分が、自分がと、自分のほうから推し測る見方でなく、自分がやぶられ、ひらかれる方向でものを見る見方がユニークで偉さの根幹だと思えてくる。それはまた「天」に通じているのだろう。新井の言葉に「生命の機は一息に在り」がある。
 新井を紹介する文章の末尾、飯島さんは、「現在のアメリカのキリスト教右派(福音派)が大統領選挙にも食い込んで、ゴッド、ゴッドと怪しげな牧師が何千人もの大衆を前にスピーカーで吠え立てる宗教的退廃を思う時、この儒者出身の明治人のキリスト者の存在をもう少し知りたいと思う。田中正造、野上弥生子らがこの人について語っている」と書いておられる。
 飯島さんの文章を読み、あまりのうれしさに、折れた鎖骨が突如3ミリくっついた気がした。