フジツボ

 ひと月ほど前から、近くの歯医者へ行き、数回、歯と歯茎のあいだのポケットにある歯石を除去してもらっている。ふつうの歯石なら、ギーンと鳴る例の機械でやれば短時間で済むのだが、ポケットの中となると、そうはいかない。
 先の尖った曲がった針状のものでガリガリガリガリやる。かなり痛い。最初の回が終わったとき、担当してくれた歯科衛生士の若い女性に、「ずいぶんガリガリやるもんなんですね」と言ったら、間髪入れずに、「はい。岩にへばりついているフジツボのようなものですから、ちょっとやそっとでは取れないんです」と、巧みな比喩を交え明解に答えてくれた。「フジツボ、ですか」「はい。フジツボ。何か…?」「いえ。喩えが的確だなと思ったものですから…」。若い歯科衛生士は、もう、わたしの感想には取り合わずに、「今日は左の上半分をやりました。次回は右の上半分をやります」とだけ言った。「はい。ありがとうございました」
 フジツボねぇ。ガリガリやられて歯が浮くような感じがし、歯と歯茎のあいだに住むというフジツボを思い浮かべた。

傘立て

 玄関に竹細工の傘立てが置いてあった。以前住んでいたアパートから運んだものと思われる。底のプレートが外れてしまい、ガムテープで補強していたのだが、濡れたままの傘をたたんでそのまま入れたりするものだから、みすぼらしくなってきた。玄関は、すべての気の入口であり、家の顔だそうだし、思いきって買い換えることにした。
 ひとつどうしても腑に落ちないのは、底のプレートをガムテープで補修した覚えがまったくないこと。わたし以外の誰かがやったのか、それとも、傘立てを前に住んでいたアパートから持ってきたという記憶がそもそも誤りなのか。どうでもいいことには違いないのだが…。

大気

 このごろ「気」について考えている。見えないから余計だ。この世は気に満ちている。見えなくても。東洋的なものの考えかもしれないが、万物は大きな気の流れに共振しているのだろう。人間も動物も植物も鉱物も。朝、カーテンを開けると、朝日がバッと飛び込んでくる。光線が動いているように見える。これによって、われらは生かされている。一瞬の光陰を生きている。

カラオケボックス

 先日、社員全員でカラオケボックスへ行った。このごろわたしは酒を止めている。必然カラオケで歌うこともなくなっていたから、久しぶり。好きなサザン・オールスターズの曲を次から次と入れ、歌ったのだが、声が出ず、へたばった。最後の1曲「エロティカ・セブン」になって、やっと少し声が出るようになった。
 若手社員の歌に関する覚書。ティファニーは、「いい日旅立ち」が彼女の印象にぴったりで、聴いていてすがすがしい。マサキチとサラによる「キューティーハニー」は何ともかわいく、鼻の下伸び放題。♪ いやよ いやよ いやよ 見つめちゃいやあああん。ハニー フラッシュ!! 口数少ないオカダンディーの「黒い花びら」にぶっ飛ぶ。

進まない

 担当している原稿の校正・校閲がなかなか思うように進まない。今に始まったことではないので驚くこともないが、どう工夫してもスッキリしない一文に出合うと、睨んだまま数分、ひどい時は十分近くが経過していることも間々ある。気分転換に椅子を回転させてゆっくりと流れていく雲を見たり、ハーブを嗅いだり、爪を揉んだり、背伸びをしたりして、さあやるぞ! の気合いとともに椅子を元に戻す。気分転換が功を奏し、なんだこうやればいいじゃん、と、朱を入れることもあれば、そんなに巧くいかないこともある。

 元気、活気、気力、勇気、気持ち、天気、病気など「気」のつく熟語は多い。ところで気とはそもそも何なのか。人間だけが気をもつのかといえば、そうとも言えないようだ。
 ある気功師によれば、犬と猫では治療後の反応が違うという。具合の悪い犬を診、気の流れを良くしてやると、そのことを憶えていて、2回目からは診察がスムーズに進む。ところが猫はそういかず、何度でもゼロからの診察になるらしい。動物どころか植物も鉱物も気を発している。天地宇宙に気が満ちているという人もいる。気の流れが悪くなると病気になるというのは東洋的な考えかもしれない。気脈が通じるという言い方もある。

山の記憶

 橋本深、矢萩英雄の2人展を見に行ってきた。橋本という人は初めてだが、矢萩さんとは旧知の仲。というか、多聞君の父上。版画家だ。英雄のヒデをとり、親しみを込めヒデさん、ヒデさんと呼んでいる。
 ヒデさんは以前、月の輪熊をテーマに個展を開いたことがある。テーマにしたのはいいが、月の輪熊が描けずに困ったことがあったそうだ。版画家をやめてしまおうかとも思ったという。その辺の経緯を「春風倶楽部」に書いていただいた。悶々と悩んでいたヒデさんの前に、なんと、月の輪熊が現れた! 俺を描こうたってダメさ。俺を描きたきゃ山を描け。そう言って、ヒデさんの顔をベロベロ舐めたという。
 今回のヒデさんのテーマは「山」。「山の記憶」と題された数枚の木版画があった。ずっとあれからヒデさんのなかに山が居座っていたのだなと思った。2人展は東横線綱島駅東口から歩いて1分のところにある「ギャラリーこやま」にて今月27日まで。