威厳破れたり!!

 

拙宅から見える南側の丘の上、
三角帽子の屋根のアンテナに連日一羽のカラスが止まる。
彫像のようにじっと動かない。
遠くからなのではっきりしたことは分からないが、入れ替わりでなく、
同じカラス、
かもしれない。
当たって欲しくない予報が的中し、
きのうは朝から雨が静かに降っていた。
向こうを見やれば、
一幅の絵のようにして、アンテナにカラス。
会ったことはないけれど、
メフィストフェレスのごとき佇まい、
泰然自若の姿を見よ。
と。
羽を広げ俄かに飛び立ったかと思いきや、
そう遠くない、馬の腹のようなる少し弛んだ電線に体を預けた。
あてが外れたか、電線が、揺れ始める。
揺れる。
揺れる。
揺れがだんだん大きくなる。
しばらく威厳を保っていたカラスは、
一本の綱の上のお笑い芸人よろしく片足を大きく外し(ちょっと話を盛りすぎた)
ついにバランスを欠き、
こらえ切れずに飛び立った。
飛び散ったのは雨か、はたまた冷や汗か。
焦ったろう。
焦ったに違いない。
こちらからわたしがじっと見ていたことなど知る由もなく。
カラスの威厳が破れた瞬間であった。

 

・水含みハンカチを持つ少女かな  野衾

 

飛燕

 

仕事帰り、視界を横切るものがあり、
ふと見ると、ツバメ。
このごろよく目にする駐車場の端をかすめ今井川のほうへ飛び去り、
またこちら。
駐車場は二台分空きがありましたから、
引き寄せられるように今井側の川べり近くまで。
ツバメは猶も、
低空をいそがしく飛んでいます。
明日は雨だな。
低気圧の影響で湿度が増すと、
餌にする羽虫の羽が重くなり羽虫が高く飛べずツバメもおのずと低く飛ぶ、
と気象予報士が言っていた。
飛燕は春の季語。
いまは新緑、夏へと向かう。

 

・朝礼や校長がハンカチ語る  野衾

 

閃いた!?

 

きのうは、温めていた企画を社員に伝えるという大事な仕事があり、
どんなことばで、どう話せばいいのか、
アタマがいつになくフル回転していたようで、
そのためもあって、
一日の務めが終ってもまだ冴えが残っていたらしく、
いつもなら、
悶々と悩むテレビのクイズ問題に
速攻で答え、
家人に驚かれたり。
で。
閃いた!?
突然ですが、比較的文学。
比較文学でなく。
世に比較文学なるものが存在し、
ウィキペディアを見ると、
「比較文学(ひかくぶんがく)は、文学の一分野。
各国の文学作品を比較して、表現・精神性などを対比させて論じる立場」
と説明されています。
日本比較文学会なる学会もあります。
そこに「的」を投入し、
「比較的文学」「日本比較的文学会」
となると、
ふたつとも存在しません。
あたり前田のクラッカー(古いか)
たった一文字「的」を加えるだけで、
厳密な学問の世界がなにやら妖しくゆらめいて、
ゆる~~~く変貌を遂げる。
文学のようで文学でない、
では文学ではないのか、といえば、そうとも言い切れない、
まぁ、どちらかといえば、文学、
みたいな。
と。
さて、
色づくきょうの仕事きょうの仕事。

 

・吾もまた後ろ姿かサンドレス  野衾

 

「ぜ」について

 

3番の歌詞に「今日こそキッスしてやるぜ」というのがありますが、
この〈ぜ〉を流行させたのはご存知、石原裕次郎でした。
「俺は待ってるぜ」と〈イカス〉男の言うセリフだったわけです。
そして歌謡界最後の、〈ぜ〉男は近藤真彦です。
昨今の男の子事情からして、
もう彼の後に〈ぜ〉が似合う男の子は登場しないのではないでしょうか?
裕次郎の〈ぜ〉には〈余裕〉が、橋の〈ぜ〉には、〈勇気〉が、
マッチの〈ぜ〉には〈から元気〉を感じてしまうのですが、
これも時代なのでしょうか?
しかし、
この〈から元気〉すら懐かしいと感じる時代が、
もう既に始まっているのかもしれません。
(大瀧詠一『大瀧詠一 Writing&Talking』白夜書房、2015年、p.648)

 

大瀧詠一が亡くなったのが2013年12月30日で、
それから一年三か月ほどして、さまざまな媒体に書いていた大瀧の文章とインタビュー
をまとめた本が出版されました。
買って会社に置いてあったのを、
このたびじっくり読んでみて、
いろいろ発見することがありました。
引用した文章は、
1999年8月に出された橋幸夫のアルバム『SWIM! SWIM! SWIM!』に付されたライナーの角、
もとい、ライナーノーツから。
1曲目「ゼッケンNo.1スタートだ」に関して。
内容もさることながら、
この文章中「昨今の」の使い方が絶妙。
ここで笑ってしまいました。
ちなみにわたしは、
これまでの人生で「ぜ」を使用したことはありません。
おそらくこれからの人生でも使うことはないだろうと思います。
いや、ひょっとして、
人生の最後に、
「俺は死にそうだぜ」
と言うかもしれない。
いや、
それはぜったいにないな。

 

・ひむがしの時を見てゐるレースかな  野衾

 

男子中学生が歌う「糸」

 

ご覧になった方も多くいると思いますが、
YouTubeで「男子中学生 糸」
で検索すると、
2015年11月に収録された動画がアップされています。
体育館でしょうかね。
壇上に立った男子中学生がザワつく在校生たちを前にしておもむろに歌いはじめます。
再生回数は現在まで、すでに1300万回以上。
わたしもときどき見て聴いています。
見るたびに涙がこぼれます。
プロの歌手でなく、
プロの歌手でないからこそかもしれませんが、
その堂々とした歌いっぷり、
立ち姿、声、みんなの前で歌おうと思った少年のこころを想像すると、
ただただ泣けてきます。
レビューを見ると、
みなさん同様に感動したことが分かります。
こんなレビューもありました。
「爺さんを泣かすなよ、余生を思いっ切り生き抜こう。」
どなたが撮った動画か分かりませんが、
粗い画像ではあるけれど、すばらしい歌を聴き、
たった数分のことながら、
こんなふうに見ず知らずの多くの人を感動させる男子中学生の存在が輝きを増し、
その姿を思えば、
また、そのことを通して、
歌の力を改めて感じないではいられません。
話が飛ぶようですが、
ただいまチャールズ・テイラーの『世俗の時代』を読んでいます。
この本は、
ヨーロッパを話題にし、
500年前には信仰をもたぬ生活が考えられなかったのに、
わずか500年の間に、
信仰をもつことが特殊な事象になってしまうほど
大きく変ってしまった、
そのことがテーマになっています。
考えるきっかけをいろいろに与えてくれるいい本ですが、
男子中学生が歌う姿を動画で見、
多くの人のレビューを読むと、
現代に生きる日本人もテイラーが問題にしていることと深いところでつながっている、
キリスト教の信仰と異なるようでありながら、
実はそうでないのではないか、
根は共通しているとわたしには感じられます。
人間のこころの底にある共通の信、また真に触れるようで、
「爺さんを泣かすなよ」
に共感を覚えます。

 

・雲が行く丘の新樹のさやぎをり  野衾

 

二度見三度見

 

おとといだったか。何気なく外に目をやると、
鉄塔をむすんでいる高所の電線になにか止まっているように見えます。
さいしょは烏かと思いました。
いや、ちがう。
ならば、なんだ?
黒いビニール袋が風に吹き上げられた?
いや、ちがう。
ならば。
しばらく視線を逸らさずに眺めていました。
あ!
ひ、ひ、ひと!!
籠のようなるものを足にぶら下げ作業しながら移動しているではありませんか。
目が覚めた。
へ~。
いっやぁ、すごい!
高所恐怖症のおいらにはぜったい無理!
きのう、ふたたび。
こんどは鉄塔の上でなにやら作業。
向こうの丘の鉄塔を見やれば、
ひとり、いや、
ふたりの人間が立って作業をしています。
自分たちの縄張りに入って来るなとでもいうように、
烏が二羽、何度も近寄り、
縦に斜めにギャーギャー喚いています。
二十年以上ここに住んでいますが、はじめて見ました。
狸を見たとき以上に驚いた。

 

・蟻を避け進む径のくねりをり  野衾

 

今の学者は

 

京都大学学術出版会の鈴木哲也さんの本で知ったことばに、
「journal-driven research」
があります。
「学術誌駆動型研究」ということですが、
自身の興味関心(それはもちろんあるにしても)
というよりは、
なにをすれば学術専門誌に掲載されやすいかを大きな動機としてなされる研究、
そんな意味のようです。
そういう傾向がこのごろ増していることを併せて知りました。
さてとつぜんですが、
論語「憲問」に、
「子曰、古之學者爲己、今之學者爲人」
のことばが出てきます。
「子曰く、古《いにしえ》の学ぶ者は己《おのれ》の為にし、
今の学ぶ者は人の為にす」
これは、
むかしの学ぶ者(学者を含め)は自分の利益を考え利己的に勉強したが、
いまの学ぶ者(学者を含め)は人さまの利益を考え、
人さまのことを思って利他的に勉強する、という意味
ではなくて、
むしろ真逆にちかく、
むかしの学ぶ者は自身の修養を目的として学問をしたが、
いまの学ぶ者は世間の評判を問題にし、それを気にして学問をする、
そういう意味になります。
「journal-driven research」(「学術誌駆動型研究」)
を論語に照らし合わせると、
専門誌に掲載されること=世間の評判、
とは一概に言えないにしても、
「今之學者爲人」
ということばが持つ内実に深いところで重なる気がします。

 

・紫陽花や古民家の庭うへは空  野衾