馬鹿ていねい

 「お使いになっているパソコンの背面に貼られているシールに記載されている製造番号を御教示賜りたく何卒よろしくお願い申し上げます。」
 知人は大手電機メーカーに勤務。パソコンに関する客からの質問にメールで答えるのが仕事だ。お客は神様だから、上司からきつく、ていねいにていねいに、さらにていねいに最上級の言葉をもって接するようにと諭されているらしい。その例がたとえば上記の文。知人いわく、製造番号を知りたいだけなのに、なにも御教示賜らなくてもいいのではないか。製造番号を教えていただけますか、でいいだろう。だって、その客が知りたいことはもっと先にある。知りたいことの手前でなんだか妙にていねい過ぎる言い回しをされて、客はどう思うだろう、云々。
 知人の意見は至極もっともだと思ったから、そう答えた。「賜る」と「存じ上げる」がやたら多い文章は、皮ばかり厚くて食うところがほんの少ししかないフルーツに似ている。大事なことを本当は知らせたくなくて、「賜っ」たり「存じ上げ」たりしているのじゃないかと勘ぐってしまう。

研究テーマ

 谷川健一さんから電話が入る。日本経済新聞の夕刊に金曜日までコラムが連載されるらしい。
 さっそく広告代理店に電話し、FAXしてもらう。「<小さき民>こそ わが師」というタイトルで市町村合併についての安易な方策について警鐘を鳴らしている。谷川さんは現在八十三歳。柳田国男と折口信夫を継承する民俗学の泰斗だ。
 記事を読んで驚いたのだが、谷川さんが研究を始められたのは四十九歳とのこと。五十を前にして一念発起したのだろうか。これまで何度かお目にかかりお話をうかがう機会があったが、現状のさまざまな問題が徐々に時間性、歴史性を帯びてきて、まるでタイムマシンに乗っているような気になってくる。『宗像教授伝奇考』を読むよりも面白い。膨大な時間によって培われた庶民の知恵を伝承することは、今のわれわれの生のゆたかさにつながっていると気づかされる。晶文社から『独学のすすめ―時代を超えた巨人たち』がでているが、遅読のわたしが一気に読んだ。谷川さんの先人に対する敬愛の情と学問への決意がみなぎっているからだろう。

意味はない

 クールビズ、クールビズ、クールビズ、クールビズ、スクール水着、なんでか連想がそっちへいく。語感のせいだな。それから、こんなの。おんながすなるエステというものをおとこもしてみんとてすなり。オステ。アハハハハ… 自分でウケてどうする。
 専務イシバシと大阪へ向かう新幹線の車中、「最近は男も身だしなみに気をつけるようになって、エステに通う男が増えたそうだな。男がいくエステのことをオステと呼んだらどうだろう?」。イシバシ、ガハハ…と笑いながら、「いいわねえいいわねえ。アハハハハ… でも、あまり優雅な感じがしないわね」とかなんとか。そんな会話に興じながら大阪を目指したのだった。

大阪出張

 本に収録予定の座談会に出席のため大阪入り。鎖骨骨折以来ワイシャツをはじめて着た。今年はおかげさまでクールビズとかいう妙なスタイルが流行し、ネクタイをしていなくても目立つことはない。ま、ネクタイをしているとかしていないとかの前に鎖骨固定バンドで思いっきり目立っているわけだが。
 ええと、話は突然変わるが、谷町九丁目交差点角のお店で食べたタコヤキが美味かった。本当に小さな店で、店内にカウンターがあるとはいうものの、大人五人は入れそうもない。タコを焼くのは奥さんの係り、持ち帰りの客のことも考え外で焼いている。というか、あの狭さでは店の中で焼くのは無理だろう。
 専務イシバシと半皿(6ケ)3枚とってフーハー言いながら頬張った。あと、ダシ巻き玉子にウーロン茶。帰りがけ威勢のいい声で若旦那が「おおきに!」と言った。角の小さい店で稼ぎお金をためて立派な店を持つのが夢だとか。いや、尋ねたわけではない。かいがいしく働く若い夫婦の姿から、こっちが勝手に想像したことで…。いいなあ、未来だけが目の前に広がっていて。

せつなく、いとしい

 カントール「私は二度と戻らない」、ピーター・ブルック「カルメン」、ヤン・ファーブル「劇的狂気の力」、竹内敏晴「奇跡の人」がわたしがこれまでに観た芝居のベスト4。昨日これにあらたに加わった。ピナ・バウシュ・ヴッパタール舞踊団による「ネフェス(呼気)」がそれ。
 チラシによれば「ネフェス」は、バウシュとヴッパタール舞踊団の香港、リスボン、ロサンゼルスなどの国際共同制作シリーズの新作で、バウシュと三十人のダンサーたちがイスタンブールに三週間滞在し、バザール、裏通り、海岸通りを巡って体験したことが基盤になっているという。特に決まった物語で進行するわけではなく、人生の悲喜こもごもをコラージュしている。音楽はトルコのものを中心にしているそうだが、西洋と東洋が交差する都市にふさわしく、猥雑かつ現代的、耳に新しい。踊りはどれも哀切でコケティッシュ。日常のちょっとした喜びやおかしさを切りとっていると思われるのに、ほかでは得られない共感と感動がある。
 舞台はいたってシンプルながら、舞台中央に設えられた湖(上演開始後、あれっ、なんか染み出てきたぞと思っていると、それが本当に水をたたえた湖になり、第一部のクライマックスでは天井から水が滝のように落ちてきた!)のほとりで、男と女の日常と人生が官能的に繰り広げられる。洗濯していると思われる女は、背後から忍び寄る男にそれと気づいて振り向き抱き着いて抱擁、歓喜の声を上げる。が、すぐにもとの洗濯の動作に戻り(この瞬間の表情と動作の転移が見事!)日々の労働にイヤイヤながらいそしむ。また振り返っては男に抱きつく。それが三度四度。ア〜ッア〜ッと、悲しいぐらいの現実に客席から笑いが漏れる。
 休憩二十分を挟んで第一部六十分、第二部七十分ながら、時間とともに舞台と客席の呼吸が重なってくるのが見えるようだ。チラシには「価値のある唯一の行為は愛することである。――愛することは踊ることである。」「何かを探し求めている観客は、そこで何かに出会い、自分自身の居場所を見つけ、…感情、思考、イメージのエレメントが舞台と観客で織り上げる一枚の布となるように…」のバウシュのメッセージが記されている。
 踊りの最後、男優たち全員が上半身裸で舞台の袖からカタツムリのような動きで座ったまま舞台中央へ移動してくる。女優たちが反対の袖からこれまた全員次つぎに座ったまま男たちにやさしく微笑みながら舞台中央へ移動。音楽はトム・ウェイツだ。男たち、女たちは眼差しを交わしながら近づき、だが一緒になることはなく、舞台の袖へ消えていった。やがて幕となりバウシュはじめ役者たち全員ならんだ時の拍手の凄さといったらなかった。スタンディング・オベーションの嵐。祈りのような踊りに感動し涙を拭くのを忘れた。いいものを見せてもらった。
 ピナ・バウシュ・ヴッパタール舞踊団による「ネフェス(呼気)」は、新宿文化センターにて今月16日まで(13日休演)。

十年ぶり

 スティ−ヴィー・ワンダーの新譜が今月、前作から約十年ぶりに出るそうだ。これは何をさておいても買わねばならぬ。日本盤、アメリカ盤、イギリス盤、どれにしようか。早く聴きたいから一番最初に入手可能なものにしようか。昨年あたり、出るとか出ないとか出るとか言っていたのに、結局出なかった。期待はいやが上にも高まる。アマゾンでもHMVのHPでも紹介されているから今度は本当だろう。HMVはジャケット写真までアップしている。ネット注文もいいが、ここはなにげにぶらりと店へ行き、どんなふうに展示されているのかを確認し、十年ぶりのリリースを寿ぎながら買うことにしよう。フフフ…
 一夜明け、虫の知らせか、HMVのHPをクリックしたら、ない! ない! どこにもない! ジャケット写真もない! 消えた! 急いでアマゾンをクリックしたら、こっちの紹介は消されていない。ふ〜。焦った。ま、まさか。ここまで来て。そんなことないよね。(冷汗脂汗)

生命の機

 今月刊行された『江戸文学』(ぺりかん社)に詩人の飯島耕一さんが「江戸と西洋」のタイトルで文章を書いておられる。その雄勁でのびやかな筆致に誘われるまま、気持ちをひらいて読み進んでいくと、後半の箇所において「わたしがここで手短かにではあるが紹介したいのは、幕末に仙台と江戸で儒学を学び、明治になるとアメリカに渡って、アメリカのキリスト教を中心とするコミュニティ、「新生同胞教団」に入った一人の人物のことである」として、四頁にわたり(!)新井奥邃を取り上げてくださっている。若頭ナイトウは一読、はじめて奥邃がどういう人だったのかわかった気がしますと感想をもらした。
 新井奥邃について、わたしはただ<偉い人>だと思ってきたし、今でも思っている。だから『著作集』の刊行に踏み切った。が、わたしの場合はあくまでも直感。新井の文章を読むには読んだが、系統立てて読んだわけではない。何がそんなに偉いのか、何をしたから偉いと感じるのかと訊かれれば言葉に窮する。なにをしたからということはひとまず置いといて、偉さの中身は言葉ではないかと今は思う。生前の新井を知っている工藤直太郎氏は、新井の文章がどこを切っても血の出る文章だとおっしゃった。面白おかしいことを書いているわけではないけれど、新井の文章は読むとなぜか元気が出るのだ。嘘だと思うなら『著作集』のどの巻でも読んでみてほしい(はい。これは宣伝、でも本当です)。元気の質がほかで得られる元気とちがう。そのことの理由が飯島さんの「天」をめぐっての今回の論考(さらに詩集『アメリカ』と小説『白紵歌』)を読み、新井の文章からの引用と相俟って、わたしもすこし分かった気がした。自分が、自分がと、自分のほうから推し測る見方でなく、自分がやぶられ、ひらかれる方向でものを見る見方がユニークで偉さの根幹だと思えてくる。それはまた「天」に通じているのだろう。新井の言葉に「生命の機は一息に在り」がある。
 新井を紹介する文章の末尾、飯島さんは、「現在のアメリカのキリスト教右派(福音派)が大統領選挙にも食い込んで、ゴッド、ゴッドと怪しげな牧師が何千人もの大衆を前にスピーカーで吠え立てる宗教的退廃を思う時、この儒者出身の明治人のキリスト者の存在をもう少し知りたいと思う。田中正造、野上弥生子らがこの人について語っている」と書いておられる。
 飯島さんの文章を読み、あまりのうれしさに、折れた鎖骨が突如3ミリくっついた気がした。