こころと体

 次回『春風倶楽部』のテーマである。これ、わたしの担当で、そのつど勝手に(というより、その時々に切実な)テーマを決めている。人形に関心が向けば「人形偏愛」にし、「女」の不思議にとらわれれば、「おんな オンナ 女」。で、今回は「こころと体」。
 心身一如ということばもあるくらいだから、つながってはいるのだろう。一如というからには、つながっているというような生易しいことではないのかもしれない。そのあたりのことを、みなさんどう考えておられるのだろうか。ぜひ、聞いてみたい。
 世はストレス社会。ストレスを溜めないようにすることが健康の秘訣とは、よく耳にする。でも、実際のところ、それが難しいから悩むじゃないか。酒でも飲んでカラオケ歌って、ということもあろう。
 名古屋の有名な鍼灸の先生が仰っていたが、由緒ある鍼灸のマニュアル(あるんだ!)では対応しきれないことが最近多くなっているそうだ。体自体が変わってきているため、マニュアル通りにやってもダメで、体に訊きながら診なければならない。難しい時代です、と。

休日の水遣り

 以前はそのために休日出勤したこともあった。散歩がてら、それも苦ではなかった。正月やお盆で帰省しているのに、途中で水遣りのために一度戻って、また帰る、なんてこともあった、なんてことはなかったが…。にしても、いつも気になることは確かだった。
 横浜在住の人に交替で水遣りのためだけに出社してもらったりと、これまで気苦労が絶えなかったが、先日、トーキューハンズに行ってみたら、画期的な商品をついに発見。鉢植簡易給水装置。ん!? 「休日のオフィスやお留守の時の給水番」と銘打ってある。これこれ。これだよ、探していたの。だから、ハンズって好きなのよ。
 何種類かあった中で、一番簡単で安いのは、空いたペットボトルの先っぽにピエロが被る帽子のような鋭く尖ったキャップを着けて、先端から2センチほどのところに画鋲で穴を開けるというもの。たったこれだけ。よく出来てるよなぁ。試しに家のベランダの植物でやってみたが、確かに機能を果たしてくれる。エライ! きっと、どこかの発明マニアのおじさんかおばさんが発明したんじゃなかろうか。いや、本当にありがたい。これで安心して休日、家を空け会社を休める。

相関度

 書評と本の売れ行きに関することだ。相関関係にある、と言いたいところだが、必ずしもそうでもない。素晴らしい内容の書評が掲載され、こりゃ凄いぞ! と社内騒然と化しているにもかかわらず、その書評の効果と分かる注文が、学生服のボタンの数ほどしかないこともある。が、書評が掲載される媒体によっては、翌日から注文が殺到することもあり、この場合は確実に相関関係にあると言えるだろう。また、最近は、各書店が工夫して、書評された本の傍に店独自のポップ(丸や四角の厚紙に書評の切抜きを貼ったり、サインペンでかわゆく宣伝文句を書いたり、目立つように針金で留めたもの)を用意しているところもあり、こうなると、書評と本の売れ行きの相関度は自ずと増す。
 新聞の書評は、それが掲載される前の週にネットで分かるようになっており、たとえば○○という本の書店注文が今日はなんで多いんだ? と訝しく思っていると、書店員がネットでチェックして、注文してくるということが多いようだ。ってえことは、書評と本の売れ行きの相関度は、どれくらい以前からかはとりあえず置いといて、増加傾向にあると言っていいのかもしれない。総体として本は売れなくなっているわけだから、連携プレーが大事ということか。

アナログ人間

 帰省するための新幹線チケットを「駅ネット」で予約するという発想が端からないわたしは、FAXもなかなか信用できない。どこかでだれかもそんなことを書いておられたが、わたしも全く同様、本当に相手に届いたか心配で、なかなかFAXから離れられないのだ。機械の傍にじっと立っていると、若い社員が不審そうに見るので、しぶしぶ自分の席に戻る。が、心配でちらちらFAXのほうに目が行ってしまう。癖なんだなぁ。

天のこと

 飯島耕一さんの近著『漱石の<明>、漱石の<暗>』を四分の三ほど読んだ頃、BGMにかけていたアメリカ50、60年代のオールドポップスに誘われてか、うとうとし、読み掛けのページに栞をはさんで、昼の布団にもぐり込んだ。西式健康法の創始者・西勝造氏が提唱された平床寝台に興味を持ち、トーキューハンズに頼んでおいた厚さ三センチ、畳一畳分の板(重くて持ち上がらず、うんとこせっとこ引きずって寝床まで運んだ)が、午前中の配送すれすれの時刻に届き、それを敷いてあったのだ。そこに体を横たえた。二時間、いや、三時間、何のこれっぽっちの夢を見ることもなく、板なのに、それほど痛くもなく目が覚めたことがうれしくて、案外ぽかぽかと背中が温く、むっくりと起きだし、あとは、残り四分の一ほどを一気に読み切った。「明」は天、「暗」は人、と受けとってもらってもいい、と飯島さんは「あとがき」に書いてある。天はどこにある。表紙写真の漱石の顔は、これまでいろいろな場所で見知ってきた顔とは違う<暗>のそれ、人の顔だ。
 今年七月に刊行された同じく飯島さんの『白紵歌(はくちょか)』の最後にこんな文章があったことを不意に思い出した。
 翌朝、目覚めた時、西野鶴吉君は妙なことを考えた。「ひょっとして天は今寝ているベッドの下にあるのかも知れない。そのせいで背中のあたりが温いのかも知れない。ひょっとして天はおれの靴の中にさえあるかも知れん。天空は胎児にとっての子宮なのかも知れん」。そう思うと鶴吉君はもう一度こころよい眠りに落ちたのである。

指定席

 正月とお盆くらいは、ふるさとに帰っているのだが、面倒なのはチケットを取ること。
 以前はちゃんと自由席があって、ぶらっと乗った。座る席がなく4時間ずっと立ちっぱなしということもないわけではなかったが、それでも、この「ぶらっと」が良かったのだ。ところが、いつのころからか、秋田新幹線に自由席がなくなった。必然、1ヶ月前から予約を受け付けますというアレを意識して、チケットを取る必要に迫られる。これが厄介。面倒至極。まずは往きの切符。
 朝、第1希望から第3希望まで書いた紙を保土ヶ谷駅「緑の窓口」に書いて出したら、すでに20番目。果たして当たるかどうか。宝クジな気分。会社が退けてから、帰りがけ窓口に顔を出したら、窓口横のガラスにチケットが取れたかどうか赤丸までしてあって、なんとか第2希望のチケットが取れていた。良かった! 親切心でそうしているのだろうが、クジに当たったみてぇに、○だの△だの×だのって、おちょくってんのか、まったく。でも、まぁ、怒っても仕方がない。ふ〜。今度は、往復の復の切符かよ。

産卵期って

 知人Aの娘さんは小学3年生。最近家に帰ってきて、いろいろプリプリ突っかかった物言いをし、「わたし、いま反抗期なの」と言うそうだ。母親のAさん、慌てず騒がず、「へ〜、そうなの。おめでとう。そうやって○○ちゃん、だんだん大きくなっていくのよ」。娘、いたって真面目な面持ちで、「反抗期の次は産卵期、そして最後に老後を迎えるのよ!」反抗期―産卵期―老後、アハハハハ… 鮭じゃないんだから。にしても、子供っておもしれぇなぁ。ところで、○○ちゃんの絵の才能は大した物で、もう少し大きくなったら、春風社の本の装丁や挿絵に使いたいと思っている。てゆうか、産卵期を迎える頃の○○ちゃん、そんなことでは飽き足らず、才能いっぱいに次々作品を産み出して画集でも作っているかな。