あやまる

 ありがとうと感謝の気持ちを相手に伝えることは大事だし、それが人でなくても、たとえば自分の体やこころにお疲れさん、ありがとう、と日々の労をねぎらうことは、自分とゆたかにほがらかに付き合うための秘訣かもしれない。
 ところで、ありがとうと同様、大事な言葉に、ごめんなさいがある。このごろ見たり聞いたりした場面や話で、ごめんなさいに関わる素敵なエピソードをここで披露したいのだが、やはり差し障りがありそうだ。一般化して言えば、ごめんなさいと理屈抜きであやまることは難しい。なんで俺が、わたしがあやまらなければならないのさ、ならないのよ。あやまらなければならないのはあいつのほうじゃないか。事は「行列のできる法律相談所」の問題ではない。
 向こうに9割の非があり、こちらに1割しかないときでも、ごめんなさいとあやまれるか。なかなかだ。それでも言わなければならないときがある。ごめんなさい。ひとのこころはそういうことで動き始める。変に涙が流れてきてさ。悔しいみたいな気持ちもあるし。「上を向いて歩こう」は、そんなときにも合う歌かと思う。
 自分の非の率が低いと思っていて、思っているのに、ごめんなさいと素直にあやまれる人は偉い。

欽ちゃん

 テレビをつけたら欽ちゃんがでていた。旅番組で、北海道の紅葉を見にいくというもの。ゴールデンゴールズの問題もあったけれど、行く先々で出会う人々はみんな欽ちゃんが大好き。なんとなく見ていたのだが、ある場面で、さすがだなぁと唸った。
 ある店の主人は変り者、頑固者で通っている。タクシーの運転手からそう聞いた欽ちゃんは、さっそくその店へ。ドアを開けて入っていくや、店のご主人、「ああ、欽ちゃん」とは言ったが、「カメラは止めてください」と。取材は一切拒否なのだそうだ。ところがそれからの欽ちゃんの対応がすごい。「取材拒否だなんて、そんなことおっしゃらずに旦那、人と人との付き合いってことで…。ところで、何をつくっているの」と、カウンターの中へ入っていく。この辺のやりとり、前もって打ち合わせをしていたとも思えない。ご主人の断り方は静かだが断固たるもので、素人の演技であそこまでできるわけがない。そのうち近所のおばさんも加わって、「欽ちゃんがせっかく来てくれてそこまで言ってるんだから、いいじゃないか」。それでも店のご主人、ダメダメと手を横に振る。その間も、欽ちゃん、「へ〜、そうやってつくるの。へ〜。ところでこれは何?」と、実に巧み。あとへ引く姿勢を全く見せない。見ようによっては、強引。やりすぎ。無礼。ところがところが、ご主人、最後にとうとう折れて、「負けたよ」。
 となると、今度はこれも食べてみて、こっちも食べてみて、と次々に自分のつくったものを欽ちゃんに食べてもらおうと差し出す。人ってそういうものだねぇ。欽ちゃんも、頼みこんだ手前、負けじと口に入れては「洋風だね」とか「美味しいね」とか。垣根が取っ払われ、今度はまるで十年来の友人のよう。「ありがとね」と言って腹いっぱいになった欽ちゃんが店を出ていこうとすると、ご主人、欽ちゃんに握手を求めた。ご主人、ただ照れ屋なだけだったんだ。庶民派欽ちゃんの面目躍如。店のご主人がつくっているのは、クレープや大判焼き。中身は子供たちのリクエストにこたえて変ったものばかり。

メール

 賛否両論かまびすしいが、わたしはメール賛成派。仕事は別にして個人的にあまり利用しないし、もらうこともそれほど多くない。そんなふうだから、たまにメール着信の記号が画面に現れていたりすると、喜び勇んで開ける。行き付けの店のメールマガジンだったりするとがっかりする。
 出版人としては、たとえメールの文章でも推敲に推敲を重ね、なおかつ気の利いたワンフレーズでも差し挟もうと邪心が湧くものだから、なかなか送信ボタンを押せないで画面を睨みつけることがしばしばだ。そういう時に限って、電話がかかってくる。あわててボタン操作をするものだから、間違えて、推敲に推敲を重ね、今一歩のところで送信という寸前までいっていた苦労があっさり水泡と化す。あれは、相当こたえる。
 なんということのない簡単な操作で、落ち着いてうまくいくこともあるが、学習が身に付かず、やっぱりあわてて電話に出てしまい、作りかけの文章を消去してしまうミスをなかなか無くせない。

ある女性の場合

 女性の買い物に付き合うのを嫌がる世の男性が多いようだ。情報としてインプットされているだけかもしれないが。
 つい先日も、テレビで男性お笑い芸人一人と女性タレント二人がハワイで買い物という場面で、いかに女性が時間を忘れて夢中になるかを面白おかしく映し出していた。あれは、女性というものはそういうものだという作られたイメージに従っているだけかもしれないから、鵜呑みにはできない。
 わたし個人のことで言えば、女性の買い物に付き合うのはそれほど嫌いではない。好きとまでは言えないけれど、ある程度の好奇心を満足させられる。なんの好奇心かといえば、その女性がどういう種類の商品に魅せられるのかが手っ取り早くわかることはもちろん、買い物をするときの行動パターン、と言っては少々大げさだが、それが男性とはちょっとしたところでちょっとずつ違っていて面白い。
 かつて。ブランド好きの知人がいた。もちろん女性。特にどのブランドとこだわっているわけではなさそうだったが、いろいろ、わたしなど知らないブランドにも詳しく、総じてブランド好きと言ってもよさそうだった。慣れた手つきで商品を手に取り次々と見ていく。ごくごく庶民なのに、相当金持ちか、金持ちと付き合っている風情を漂わせていた。その姿を後ろから見ていて、この人は、価格はともかく、その物自体が可愛らしかったり好ましかったり自分に似合ったりを識別していると思われたから、それはそれで彼女のライフスタイルなんだろう、ブランド好きとちょっと揶揄した言い方でひとくくりにするのはどうかと思われ、少し距離を置いて眺めていた。ところが、あれはシャネルの店だったと思うが、新作のスーツ(ワンピース? 忘れた。まあ、いい。要するに、服)を彼女が見ていたとき、それこそコンマ何秒と思われる素早さで商品に付いている値札をつまんだ。値段など気にしない風だったのに、やっぱり気になっていたのかと思った。
 値段を気にするのは当然であり、ゆっくり普通に見ればいいのにと、わたしなど思うのだが、まるで電光石火のごとくにちらりと見たのにはそれなりの理由があったのだろう。分析すれば選択肢がいくつか考えられるだろうが、心理の奥をさぐっても仕方がない。そこはやはり身の程をわきまえ、とても手が出ないことを最初から知っていたということだったのかもしれない。わたしは、ただ目に留めただけで黙っていたが、いろいろな話題について、気持ちいいぐらいあけすけにズバズバ物を言う人だったから余計に、シャネルの店での一件から、なんだかいつもの彼女とは違う印象を受け、少しちぐはぐな感じがしたのと、彼女の中のおさな児のこころを見たような気がしたのを憶えている。

そんなには磨けない

 近所の歯医者に行った。治療もするが、大事なのは日々のブラッシングで、それをないがしろにすると、治療してもイタチごっこになるから、ブラッシングの目標を80パーセントに設定するという。やった方はわかってくれると思うが、歯磨きが80パーセントできているというのは相当の数字だ。仕方がないので、今日こそはという勢いで、朝、1時間ほど間を置いて2度に分けて歯を磨き、指示通りに歯間ブラシもつかい、これで文句ないだろうぐらいに準備万端ととのえ、ピカピカ状態で歯医者に向った。それなのに、あの甘ったるいピンクの変なゲル状の液体を歯にまぶされて検査したら70パーセントしか磨けていないという。そんなはずないだろう。よく見てくれよ! 指示通り歯間ブラシもつかって時間かけて磨いたんだからさ。「そう、おっしゃられても、磨けてないものは磨けていませんから。ほら、この通り」鏡まで見せてくれる始末。どれ。ん。なるほど。そうか。俺の負けか。確かにピンクの色が残っている。でもさあ、80パーセントってのはちょっと無理じゃないの。毎日そんなに丁寧に細かいところまで磨いていたら、それだけで1日が終わっちまうよ。とは言わなかった、言えなかったが、まったく嫌になる。「道具が増えて恐縮ですが、歯間ブラシのほかに、こういうブラシもありますから、これをつかってみてはいかがでしょうか」だって。だったら最初に言ってくれよ。あ〜あ。

収穫時期

 九月に入ったと思ったら急に涼しくなり、八月の暑さはいったい何だったのかと呆れるぐらいのものだが、この涼しさは農家にとってはちょっと、どころか、相当、頭の痛いところだろう。
 この時期の日照時間は米一粒一粒の実の入りに大きく影響する。収穫の日取りをいつにするかは重要課題だが、誰かが教えてくれるわけではなし、長年の経験によってしか判断できない。
 理屈としては、米粒がぱんぱんにふくれ、稲穂がこうべを垂れるほどに実ったときが収穫のベスト・デイ、ベスト・ウィークなわけだが、事はそんなにうまく運ばない。あともう少し、あともう少し実らせようと思っているその矢先に台風が直撃したりして、元の木阿弥。実った稲穂ほど雨風に弱くべったりと倒れ込む。こんなんだったら、もっと早くに刈り入れておくんだった、となる。この辺の判断が難しい。知ったかぶって書いているが、父からの受け売りです。毎年この時期になると、秋田の父から、何日から収穫するとの報告がある。

旅行記

 連日のように出版の問い合わせがある中で、最近目立つのが旅行記を本にしたいというもの。それもなぜか海外旅行に関するものがほとんど。というか全部。文化の違い、習慣の違いにもろにぶつかるから印象深くこころに刻まれるのだろう。
 昔から旅行記、紀行文のたぐいは1ジャンルをなすぐらいだ。現代では、全く旅行をしたことがない(海外はともかく)人というのはひとりもいないだろうから、理屈としては、人の数だけ旅行記ができることになる。
 個人的な趣味を言わせてもらえば、天気ばかりの旅行記(それじゃ本にならないか)とまでは言わないけれど、一日の記録を割りと淡々と記したもののほうが好きだ。そのほうが読んでいて想像力を膨らませ、まだ見ぬ国で自由に遊べる。旅行記を出したい方は、そういう読者サービスも頭の片隅において執筆して欲しい。体験したことを全部書くよりも、抑え気味のほうがかえって親切な旅行案内になっていることもある。