現場

 bookish という英単語を辞書で引くと、「本(好き)の」「 博学な」「 学者ぶる」「書物の上(だけ)の」というような意味が記されている。「本(好き)の」「 博学な」はいいとして後半ふたつ「 学者ぶる」「書物の上(だけ)の」はあまりうれしい言葉ではない。
 「ブッキッシュ」にかかわって苦い体験がある。前に勤めていた会社が倒産し金融上のトラブルに巻き込まれたとき、学生のときからの友人ふたりに相談したことがあった。
 ひとりは大手銀行ソウル支店の支店長、もうひとりは政府系銀行の中堅室長M。困り果てたわたしはまずソウルに電話した。電話口で友人が言った。「配達証明・内容証明郵便で送られた文書を読み上げてみろ」言われたとおり電話口でゆっくりと丁寧に読み上げると、今度は聞く前からそれと分かる暗い調子で「三浦くん、それはどうしたって無理だ。抜け道がない。明治の頃から絶対に抜け道がないように練りに練って作られてきた文書だよ…」ガーン!! すかさずわたしは言った。「おめえ、ずいぶん冷てえじゃねえか。無理ってなんだ、無理って。おれにそんな大金払えるわけないだろ」「冷たいもなにも、無理なものは無理なんだよ。友達だから言ってるんだ。とにかく、おれでは埒が開かない。おれは学校出てからブッキッシュに勉強し仕事を覚えてきた。現場のことはあまり知らない。Mに聞いてみろ。あいつならなにかいい知恵があるかもしれない。修羅場を相当くぐってきたはずだし現場に強いはずだから」電話を切りボタンを押すのももどかしくMに電話。「あいつ冷たいんだ。ひとが困っているというのに、無理なものは無理、なんて言いやがる。自分はブッキッシュに勉強してきただけだから現場をあまり知らない、とか言って…」問題解決のため現場に駆けつけたところを捕まり軟禁された経験もあるというMは、わたしの話を黙って聞いたあと静かに、「でも、法廷で勝つのはブッキッシュなほうだよ」と言った。
 結局、Mが自分の会社を一日休み、わたしをトラブルに巻き込んだ銀行まで友人として出向いてくれ、わたしなんか読んでもチンプンカンプンな文書に目を通し、手際よく問題を解決してくれた。Mが神様に見えた。冗談でなく。鼻水が垂れ、涙がツーと糸を引き顎の辺りでカンカンカンと鳴っていた。
 ブッキッシュにあこがれブッキッシュに徹しきれず、反対に、本など読まず身ひとつで現場に向き合うひとの言葉に圧倒されているのが今のわたしの現実だ。

 横浜に出たついでに靴のIWAMA(岩間?)に寄ってみた。ホーキンスのお気に入りの靴が二足とも(足にフィットし、価格もお手ごろなので、二足ずつ二回、すでに四足履いた)だいぶ傷んできたので替え時かなと思い、前回どおり店に入り「これと同じのください。二足!」と店員に告げた。すると「ごめんなさい。当店ではしばらく前からホーキンスを扱わなくなりまして…」とのこと。ショーック!! 仕方がない、すごすごと帰ってくるしかなかった。
 歩くことは嫌いじゃないし、ぼくの唯一の運動のようなものだから、最初この靴に出合ったときは、もう一生この靴と添い遂げようと思ったくらいだ。靴の横が破れ修理に持っていったことがあった。「お客さん、こんなふうに破れてしまったら修理はできません」と言われた。
 小学生の頃、学校で履くズック靴(上履き)が傷んでくると、新しいのを早く買ってもらいたくて、破れたところにわざと指を入れビリッとほんの少し(ビリビリビリッと大げさに破くのはさすがにはばかられたから)破いたっけ。そんなこともあった。
 ネットで調べたら、横浜駅前の岡田屋モアーズにホーキンスを扱う店があるらしいので、帰りに寄ってみようと思う。

 音楽は、その日その時の気分で、ほとんどデタラメに聴いているわけだが、CDを1枚、セットものなら2枚、最初から最後まで聴くと、はは〜、こういう気分になりたかったのかと後から気づくことがある。
 マイルス・デイビスのライブ録音の2枚組アルバムを聴いた。『ダーク・メイガス』がそれ。いわゆるエレクトリック・マイルスといわれた時代の作品で、この時期のものとしては『ビッチェズ・ブリュー』がつとに有名だが、邪悪さにおいて『ダーク・メイガス』が極北だろう。中のジャケットに写るマイルスは人間というよりもどこか猿に近く、変な汗をかいている。部屋で聴くギリギリまでボリュームを上げズンジャッジャッーズンジャッジャッー…と、ほとんど殴るようなドラムの音を聴いていると心臓がバクバクしてくるのが分かる。トータル100分近いライブ演奏を浴び、ああ、なんだ、汗をかきたかっただけかと思った。

時間がかかる

 日本整形外科学会に出席のため仙台から瀬上先生が来浜、昨日、息子さんと一緒に会社に寄ってくださった。
 鎖骨の状態を触診、折れたところの盛り上がりがだいぶ収まりましたね、とのこと。このごろの新刊をテーブルの上に並べ、しばし歓談。のち、専務イシバシを交じえ四人で小料理千成へ。医療の問題点について素人には分からない話をいろいろ伺う。
 わたしは最初ウーロン茶を飲んでいたのだが、先生から許可をもらったので、二杯目は生ビールを所望、ママが「だいじょうぶなの!?」といくらかきつい調子で言ったのが面白かった。「先生から許可をもらったんだからいいんだよ」と返したが、なんだか親に注意されたような気になった。先生はうつむき加減でにこにこしている。矯正ベルトは三ヶ月ぐらいはしなければいけないそうで、骨は時間がかかるとも。気長に養生するしかない。

150点

 『キーウィキッズに日本語を教えて』から始まった小社の出版物が五年半で150点を超えた。小出版社としては、けして少なくない数だと思う。急いでつくった覚えはないが、おかげさまで各方面、先生方から仕事と励ましをいただき、気がつけば、え、もうそんなに!というのが正直なところ。
 社員全員の努力と勤勉の賜物ながら、外部スタッフの協力によるところも大きい。入力、テープ起こし、写真、装画、装丁、デザインなど、内容に相応しいかたちに仕立ててくれるひとがいるからできる。社内だけではとても対応しきれない。その意味で、コミュニケーションの重要さを最近ひしひしと感じている。
 納得いくまで話し合う、とはよく聞く言葉だが、実際はなかなか難しい。意見を異にする人とでもじっくり話し合う、同意見の人よりも、そのほうが気づかされることが多い(仕事をしていればあたりまえか)。自分の意見を否定されたとき、月並みながらそのことをどれだけ素直に認められるか、それがつぎの展開を生み新たな足場となる。自分がやぶられることをおそれず積極的に取り入れたい。新しくひらかれるため、個人も会社も。

笑顔が効く

 夜、仙台の瀬上先生から電話。「具合はいかがですか?」その声を聞いただけで、折れた骨がほんの少しくっつくようなのだ。本当だ。気持ちというのは恐ろしい。自分でコントロールできない。落ち込んだ気持ちを明るいほうへ持っていくのは至難の業。今回それが身に染みて分かった。わたしはどうも普段躁状態で生活している。落ち込んで、もがき、これからやってくる楽しいことを想像して穴から這い出ようとしたが無理。
 瀬上先生は回診のつもりで一日一回電話してくださるという。超多忙のなかありがたいことだ。出版人の血が騒ぎ、これはぜひ本にしなければと思い、そのことを先生に告げた。タイトル『骨が折れたら… 杜の都の診察室』(仮題)。先生、アハハ…と笑いまんざらでもなさそう。が、「三浦さん、骨が治ってから考えましょう」と言われた。それもそうだと反省。
 ぼくの幼なじみにハルミちゃんという娘(いまオバさん)がいる。秋田の内科の病院で働いているが、父も母もその病院の世話になったことがある。秋田に帰ってよく聞かされるのは、ハルミちゃんの笑顔を見るとちょっとした病気なら治ってしまう、ハルミちゃんだけでなく他の看護婦さんも皆そうだと。「ハルミちゃんの笑顔を見ただけで…」の言葉を少し大げさだと思いながら聞いてきたが、それは大げさでもただの褒め言葉でもなく現実のことなのだと合点がいった。鎖骨一本折っただけでとんでもなく落ち込んだから、人の笑顔が普段と違った意味を帯びて感じられるようになった。それと、声。

地鎮祭

 次号「春風倶楽部」特集のテーマは「横浜」。昨日、谷川俊太郎さんから第一番に原稿が届き、ワクワクドキドキしながら瞬きせずに最後まで読みきった。編集者として至福の時間。ありがてぇ〜!! さっそくお礼の電話をする。
 今回このようなテーマにしたのには訳がある。土地に対するイメージというのがそれぞれあるけれど、横浜に対して皆さんどのようなイメージを持っておられるのか、聞いてみたくなった。
 会社創業の折、横浜を拠点にしたのは何がなんでも横浜、というわけではなく、おカネも無いからとりあえず横浜で、という具合で、横浜に対して、はなはだ失礼な心意気であったかもしれない。ところが、おかげさまで会社が少しずつ大きくなり、気がつけば五周年が過ぎ六年目に入っている。ここらへんで襟を正し地鎮祭を執り行う必要がありはしないかと思ったのだ。
 新井奥邃が二十八年に及ぶアメリカ生活に見切りをつけ日本に戻り最初に踏んだ地がここ横浜だった。かつて『奥邃廣録』を編集した新井の高弟・永島忠重は、オフコースの小田和正の出身地でもある金沢文庫に住んでいた。いま我らが武家屋敷が住んでいる。人と土地に感謝し、風を受け、横浜ならではの出版社と呼ばれるようになりたい。
 谷川さんからお寄せいただいたエッセイのタイトルは「横浜さん」。新しい目録「学問人」もできてきた。よ〜っし!!