腹が収まらない

 昼飯を食いながら、興奮冷めやらぬ体で専務イシバシが話し始めた。
 朝、南行徳の駅から乗って最初の乗換駅に着く。タタタと小走りに階段を駆け上がり、いつもの電車に乗ろうとしたら、乗り込むはずの電車が目の前を通り過ぎていった。電光掲示板には確かに8時26分とある。イシバシ、自分の腕時計を睨む。8時25分。おかしい。こんなことがあるのか。こんなことが平和ニッポンの国において許されていいはずがない。ホームにいた駅員に詰め寄り、おかしいじゃないか、わたしゃ、いつも8時26分のに乗って会社に行くんだよ。今日だっていつも通り家を出たんだ。1分ぐらいの余裕をもってこのホームに来るのに、おかしいじゃないか、電光掲示板にちゃんと8時26分て出ているのに、なんで8時25分に発車するんだ。おかげで乗り遅れちまったじゃねえか、ブリブリ。
 詰問された駅員にしてみれば、そんなこと私に言われても、の心境だったろう。結局、電光掲示板が間違っていたのでしょう、と、巧くかわされたそうだ。駅員、苦肉の逃げ口上を発したのだろうが、考えてみれば、それも納得しかねる説明ではある。
 腹が収まらないのがイシバシだ。ブリブリしながら已む無く次の電車を待ち、それに乗って新橋駅に着く。ひとつ遅れると次々連鎖反応を起こすのが世の常。乗り継ぎが悪く、新橋駅のホームでさらに待たされる羽目になった。どうにも腹が収まらないイシバシは、またまたホームにいた駅員をつかまえ詰め寄った。わたしゃ、このあいだまで9時18分の東海道線に乗って会社に行ってたんだよ。朝、しなければいけないことがあるときは、その前の9時11分と決まっていたのさ。それがなんだって2本ともなくなっちまうんだ、おかしいじゃないか。そのおかげで、わたしの朝の行動が全部狂っちまっただよ。どうしてくれんのさ、ええ、どうなんだい。ブリブリッ、ブリブリッ、ブリブリッ。
 「それでどうした?」と、わたし。駅員「そんなことわたしに言われてもねえ…」と答えたそうだ。そうだろうそうだろう。イシバシも、そんなことを駅員に訴えても仕方がないのは初めからわかっている。でも、前の電光掲示板の一件がどうにも腹に据えかね、言わずにいられなかった。考えてみれば、言われた駅員も気の毒な話。発車時刻の変更で、それもかなり以前からそうなっているのに、ホームでいきなり客から詰問されたのだから。
 しかし、このエピソード、イシバシの真面目と一本気、理屈ではわかっていても止むに止まれぬ心情が吐露されており、元気をもらう話だったから、ここに記して朝のイシバシの労をねぎらうことにする。

「今」をわたす名刺

 好きな国語辞書『大辞林』で「名刺」をひくと、「小形の紙に、氏名・住所・職業・身分などを記したもの。普通、初対面の相手に渡す」とある。
 あるとき、多聞君と話していて、名刺の概念を変えるような名刺を作ろうかということになった。聞けば、多聞君、子どもの頃からカードが好きでいろいろ作ってきたのだという。多聞君自身の名刺を見れば、どういう感じかつかめるだろう。
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 これを見て閃いた。『大辞林』の説明を待つまでもなく、名刺は、日本的な風習として受け継がれ、いろいろ批判もあるようだが、現在もなくなってはいない。これを逆手にとって、面白おかしく展開してみてはどうだろう。つまり、個人でも組織でも、外の肩書きよりも、今の自分の方針、内面、肩書きとは違う外面、要するに、おれの「今」、わたしの「今」、会社の「今」、お店の「今」を一枚の名刺に集約し表現する。印刷はスクリーン印刷。詳細はともかく(笑)、これが凸凹していていい感じなんだ。日本でやれば相当高価なものにつくらしいが、インドでは割りとリーズナブルに作れる。ということで、今回、サンプル的にわたしの名刺を作ってもらった。下図参照。
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 こんな風に考えている。まずわたしが、AさんならAさんから、どんな「今」をお持ちか尋ねる。要するに、コンセプトですね。これを多聞君に伝え、一枚の名刺(オモテ・ウラ)をデザインしてもらう。Aさんにお見せし、お、すげー!! となったらインドで(!)印刷する。枚数は、そうね、500枚ぐらいが目安でしょうか。料金はデザイン料+印刷費+運送費ってとこでしょうか。少々割高でも、名刺自体から話題が拡がるような、もらった人が嬉しくなるような、そんな名刺になればいんじゃないか。
 業として動き出せば料金体系など作る必要も出てくるでしょうが、とりあえず、口コミでいくつかやってみようかと考えてるところ。

モンクな気分

 セロニアス・モンクを学生のとき初めて聴いて、なんじゃこりゃと思った。めちゃくちゃ調子っぱずれでデタラメで、適当に鍵盤を叩いているようだったから、これならピアノができない俺にだってできるわい、と不遜にも思った。
 しかし、そんなことはないのだった。今だって調子っぱずれに聞こえることもあるけれど、ある気分の時に聴くと、なんだか、話の通じる友達と一緒にいるようなそんな気さえしてくる。気持ちが落ち着く不思議な音。
 1954年のクリスマス・セッションで、マイルス・デイヴィスが自分のソロ演奏中にモンクがピアノを弾くことを拒んだという話があるが、それぐらいモンクの個性は強かったということだろう。
 モンクのピアノソロを聴いて気持ちが落ち着く自分と、とても聴く気になれない自分がいるわけだが、このごろは落ち着くほうが多くなったかも知れない。
 安原顯さんにとってのピアノ・ソロ「ベスト1」が『セロニアス・ヒムセルフ』というのも面白い。

光は速い

 なんたって光速っつうぐらいですから、さすがに速い!
 ええ、きのう、休日を利用し、会社の電話・インターネットに光通信を導入、夕刻までに作業を終えた。終えたといっても、ぼくは見てただけ。三つの業者がそれぞれ分担の仕事をこなして行くのを、あんぐり口を開けたまま呆けて見ていたのだが、餅は餅屋の言葉通り、ぼくにはちんぷんかんぷんな仕事を見事やってのけた。パチパチパチパチ…。
 さっそくインターネットに接続してみる。お、すげー、すげー。粘着力の強いテープを剥がす時のようなあの息を詰めるストレスがまったく無い。さくさくっで、パ、パ、パ、パ、なんとも爽快。は〜と息を吐くと、口の中からフローラルブーケな香りが漂い出るよう。
 電話も、急にビジネスー! って感じ(?)の、とにかくボタンがいっぱい付いているやつで、足裏マッサージ器を連想させる。お客さんから不評だった保留音も今度のは選択肢が増え、とりあえず、「イッツ・ア・スモール・ワールド」にした。ほかのもゆったりめでなかなかいい。待っている間のメロディーでお客さんをイライラさせてしまっては、なんのための保留音かわからない。
 ということで、電話とインターネットの環境が大幅に変わりました。データのやり取りも楽になる。

笑いのうず

 『瞽女』の写真家・橋本照嵩来社。テレビのドキュメンタリー番組出演で今年は何やら忙しい。
 マガジンハウスの編集者で『東大全共闘・68-70』(来月小社から発売)の著者平沢さん曰く、森山や中平に続き、橋本さんならフランスで受け入れられるだろう。なんで今まで気付かなかったのか、その筋に話してみるべき、云々。我が事のように有り難かった。橋本さんにそれを伝えたら、まんざらでもない様子。うひょひょひょひょひょ、と、どこぞの妖怪みたいに笑うから、
 「来年あたりは、NHKから出演依頼があるかもしれないよ、山根基世さんあたりがインタビューアーになって、そもそも写真家になろうと思ったきっかけは? とか、『瞽女』を出したときに写真家の木村伊兵衛が絶賛したという話も聞いていますが…、とか、子どもたちに写真の面白さを教える「めだか展」をずっと続けているそうですが、子どもたちの反応はいかがですか? とか、「ふるさと創成千円基金」での第一回受賞者は石巻在住の画家とお聞きしていますが、なんて質問されるぞきっと、どうする橋本さん」
 橋本さん、またまた、うひょひょひょひょひょ。われわれもつられて、うひょひょひょひょひょ。
 「しゃ、しゃ、しゃしんというものは、しゃぢちであって、しゃぢちでないのでありまして、しゃぢちというのは、ぢちをうつす、ぢちですか、かんじでかけば実、はあ、とうきょうのほうでは、じつ、と、よぶそうでしが、おらほのほうでは、ぢち。だから、しゃぢち。このしゃぢちというものはでしね、たけぢちとはじゃっかんちがっていましてでしね、え、たけぢちでしか、たけぢちはたけぢちでしよ、かんじでかけば竹筒、ええ、ええ、とうきょうのほうでは、そうもよぶらしいでしがね」
 橋本さん、もうすっかり山根さんにインタビューされた気になっている。楠のテーブルを囲んだ皆の前で、いつものように瞽女唄を披露してくれ、インドから戻った多聞君、ソニー生命の鎮西さんも交え大いに盛り上がる。ビール、ワイン、焼酎、お寿司、煮付け、ホタテ焼き等々、たらふく飲んで食って、九時にお開き。

仕事が会社を選ぶ

 会社のコンセプトがあって、それに応じて企画し仕事を選ぶというのが普通のあり方だろうが、逆に、仕事のほうが自律的に会社を選ぶということもあるのだろう。
 1968年から70年にかけ東京大学の学生だった平沢氏が撮った写真集をウチから出すことになった。『東大全共闘・68-70』。昨日その写真を見、モノクロ写真に写し出された当時の学生たちの真剣な表情に打たれた。立て看板に有名な「連帯を求めて孤立を恐れず」の文字も見える。怒り、願い、焦燥、時代の空気までがそこにはある。
 若き日の平沢氏にとって、われらが写真家・橋本照嵩はヒーローだったのだそうだ。写真集『瞽女』に驚き、懐かしそうに見ていた。橋本さんが草むらを一時期撮っていて、自分がある時から木を撮り始めたのは橋本さんの影響があるかも知れない、とも語った。平沢さん、すっと立ちあがり、書棚に並ぶ『新井奥邃著作集』に目をやった。背文字をじっと見、それから一冊手に取りぱらぱらめくった。東大の学生だった頃の平沢氏、その後の編集者生活35年の時間が、今、目の前にいる平沢さんと重なる。いい写真集が出来そうだ。

となりのマトリックス

 先日、保土ヶ谷駅構内にあるトイレに入った時のこと、便器に向かって用を足していたら、六、七歳の少年がぼくのとなりの便器に向かってズボンのチャック(今はジッパーか)を下ろした。
 酒も入っていたぼくは、ゆっくりのんびりやっていたのだが、少年、素早く用を足したかと思いきや、自分のモノをふりふり振って水を切り、それから思いっきり体を反らせ、マトリーックス! と叫んだ。少年の大胆な行動に思わず息を呑む。
 映画『マトリックス』をぼくは観ていない。が、エキゾチックで端正な顔立ちのキアヌ・リーブスが体を弓なりに反らせピストルの弾を除けるシーンは有名で、テレビで何度も放映された。まさしくあのシーン、アレにそっくり。少年が実際に『マトリックス』を観たかどうかはわからない。テレビで見ただけかもしれない。しかし、少年がマトリーックス!と叫び、のけ反らせた体の線は柔らかく美しく、映画の中のキアヌ・リーブスそのものだった。
 少年はさっさと手を洗い、ぼくのほうをチラと見て、駆け出した。他に誰もいなくなったので、ぼくは少年の真似をしてみた。便器に向かったまま体を反らせ、マトリーックス!
 て、て、て、いて、いて、腰に来た。体が硬くて、とてもあの少年のようにはできない。でも、なんだか嬉しくなった。
 小学生の頃、テレビアニメで『流星少年パピー』というのがあり、ぼくらの間で(たぶん全国的に)流行ったことがある。『宇宙少年ソラン』というアニメもあり、パピーとソランはあの頃の二大ヒーロー。危険にさらされた人間を救い出すため出動するとき、パピーは、ピーン、パピー! と叫んだ。ピーン、パピー!
 ぼくはやらなかったが、どう見ても運動神経のよくないA君が、何を思ったのか、あるときを境に、トイレで用を足した後、ピョンと飛び跳ね、ピーン、パピー! と叫んでからトイレを出ていくようになった。一度や二度ではない。スーパーヒーロー・パピーにあこがれたのかもしれない。勉強は出来てもスポーツがからきしダメなA君は、授業中、よく後ろの席のT君に耳を引っ張られ血を流していたっけ。血が固まりかさぶたになった頃を見計らい、悪ふざけなT君は、またまたA君の耳を引っ張った。そんなことがあってもA君は、あまりメゲることもなく、トイレの帰りには必ずピョンと一回飛び跳ねてから、ピーン、パピー! と叫んで廊下へ走り出して行くのだった。
 あれから四十年ちかく経つ。マトリックスの少年は、同じくトイレということもあり、あの頃のA君をまざまざと思い出させてくれた。