パンフレット

 『新井奥邃著作集』の新パンフの色校正紙が印刷所から届く。パンフレットのことになると必ず思い出すことがある。
 以前勤めていた出版社では印刷機を持っており、本もパンフレットも自前で印刷していた。印刷機には一色機、二色機、四色機があるが、当時その会社にあったのは一色機。二色刷りにしたいときは、一色目の、たとえば青色を刷り、十分に乾かしてから二色目の赤色を刷るという、非常に職人的、高度な技術を要した。紙というのは印刷すると水分を含み伸びるため、複数回印刷機を通して上手い具合に合わせるというのは、とても難しい。墨一色の場合は機械をガンガン回せばいいだけだが、二色となるとそういうわけにはいかない。
 パンフレットづくりがだんだんおもしろくなってきた頃、社長に内緒で印刷係のNさんにあることを依頼。「いいんですか。社長に怒られても知りませんよ」。Nさんそう言いながら、嬉しさを押し隠すようにして印刷機を回し始めた。職人というのは、困難なことを依頼されればされるほど闘志が湧くものらしい。三色刷りのパンフレットをわたしはNさんに頼んだ。
 同じ紙を機械に二回通して合わせるのでさえ難しいのに、三回通して、「口」と「十」と「土」を合わせて「里」の文字を作るような至難の業をNさんはこなし、細心の注意を払い、紙の伸びまで計算に入れ、わたしの要望に応えてくれた。それまで見たことのないような三色刷りのきれいなパンフレットが出来上がった。と、二人抱き合ったのも束の間、Nさん、「あっ!」と言うなり固まってしまった。ん? どうした? なに? なに? いま喜んだばっかりなのに…? なに? なによ? 詰め寄ると、Nさん、刷り上がったばかりのパンフを持つ手を震わせながら、「三浦さん、こ、このパンフ、どこにも社名と住所が入っていませんよ!」「な、なぬっ!」
 三千枚刷ったパンフレットに肝心かなめの社名と住所がどこにも入っていなかった。色の組み合わせのおもしろさに心を奪われ、大事な情報の確認がおろそかになってしまったのだろう。社長には当然こっぴどく叱られ、社名と住所を改めて印刷、パートの方たちの手を煩わせ、小さな短冊にカットし三千枚のパンフレットに糊付けした。してもらった。ウチの総務イトウは、そのとき社名と住所を糊付けしてくれた者の一人。『GHQの社会教育政策』みたいなタイトルの本のパンフレットだったと思う。忘れられない。

不思議いっぱい

 来月十一日に「田中正造と新井奥邃に学ぶシンポジウム」が開催されることになり、ふたたび自分の人生を振り返り、何度も言っているから耳だこの人もおありだろうけれど、不思議なもんだなあとつくづく思うのだ。本当は『新井奥邃著作集』全巻完結を祝し! とでもなれば営業的に最高だったが、そこはそんなに上手く運ばなくて、新しいパンフレットを用意するだけとなった。
 新井奥邃を知ったのは大学三年生の時。林竹二の『田中正造の生涯』(講談社現代新書)の中。同じ頃、友人から『ことばが劈かれるとき』をもらい、竹内敏晴の名を知った。だいたい奥邃の「邃」の字、読めなかったし書けなかった。「すい」と読み「深く穴をほる意」。
 林竹二の本を読み、授業の写真を見、教師になりたいというよりも、林先生がやったような授業をしたくて教師になった。授業を少しでもリアルなものにしようとの意図から竹内演劇研究所に通いもしたが、三十で学校を辞め、研究所で知り合った友人の誘いもあり、東京の出版社に入った。そこで丸十年。復刻が中心の学術系出版社だった。
 入社二年目に、永島忠重が編集した『奥邃廣録』の復刻を企画として社長に話したら、「おれが知らないような人物の本が売れるはずない」と言下に言われた。お願いします、お願いします、お願いしますと三拝九拝、百姓が年貢の高を下げてもらうべく切実、懇願するように食い下がり、やっと了解を得て本にした。すると、五万五千円のセットが一ヶ月で三〇〇セット完売、すぐに増刷! 復刻で増刷はなかなか珍しかった。個人で二セット買ってくれた人もいた。プロジェクト・エ〜〜〜〜ックス! てか。ほんとそんな感じだったよ。
 本は売れ、社長には可愛がられ、また何よりも、奥邃の文章を初めてじっくり読むことができた。その仕事の関係から、以後ずっとお付き合いいただくことになる新井奥邃記念会の幹事・工藤正三先生とも知り合うことができた。
 こんなふうに書いてくると『新井奥邃著作集』を出すために出版社を起こした、と言うことができるかもしれない。実際、営業の石橋はそう言っている。けど、そう言い切られると少しビビる。いや、かなり。なぜなら、勤めていた会社が倒産し外へ投げ出された時、安い料理屋の二階で石橋と写真家の橋本照嵩と三人飲んでいて、さあどうしたものかと考えあぐね、しばし時が経ち、不意に思いついて「会社つくっちまおうか!」となって作った会社だからだ。こころざし一本愛情一本で作ったわけではない。だから「『新井奥邃著作集』を出すために」とやられると、こそばゆい。真面目な顔を押し通せない。通りが良さそうなときは、こそばゆさを我慢しつつ「はい。そうです」と踏ん張ってはいるが…。
 そういう経緯をつらつら考えると不思議だなあと思うのだ。でも、それがリアルな現実かとまた一方では思う。読者が少しずつ広がって、今年は遂に、和漢洋なんでも来いの詩人・飯島耕一さんが『江戸文学』で奥邃を紹介してくださった(『著作集』最終巻月報に執筆してくださることが決定! 有難し!)。出版人冥利に尽き、喜びに打ち震えている。この本を出すために、おいらのこれまでの人生は用いられたのだと、旭日を拝みながら感慨に耽ることもある。気が満ちている時は特にそうだ。

竹内レッスン

 竹内敏晴構成・演出による「からだ2005オープンレッスン 八月の祝祭」を観てきた。「観る」といっても、通常のいわゆる観劇とは異なる。「オープンレッスン」というところがミソなのだろう。
 第一部「からだとことばの公開レッスン」は「菜の花畑に 入日薄れ、見渡す山の端 霞ふかし」で始まる唱歌「朧(おぼろ)月夜」を参加者全員で歌い、第二部は「砂漠のかなたに、火が見えた!」のタイトルのもと、グループのメンバーが今どういうところで、どういう困難を抱えながら生きているのかを表現し、舞台に上らせたもの。上演に先立ち、「愚かだったりだらしないと思われるところもあるかもしれないが、笑ったり泣いたり野次を飛ばしたりしながら観ていただければありがたい」とあいさつをされた竹内さんの言葉が印象に残った。
 登場人物たちのおそらくナマの日常(職場における、また家族との葛藤の)にモチーフを探り、そこから表現の極みへ押し出すというのか、吟味するというのか、他に類を見ないものであり、現代における酷薄な日常が白日の下に曝され、共感せずにはいられない。知らず知らず、我ながら、気づけば涙が零れていたし笑わしてもらえる場面も多くあった。いわゆるエンターテイメントとして観ようとしたら戸惑うかもしれないが、深く自分の日常に釣り糸を垂らそうとする時、彼らが提示し表現しようとする切実な願いから逃れられる人は誰もいないと思われた。
 また、毎度感じることながら、竹内敏晴という人の凄さを今回改めて感じた。竹内さんにとってレッスンとは生きることそのものなのだろう。
 今年ドイツに招かれた時、ご家族はたいそう心配されたそうだが、竹内さん、それに対し「レッスンをしに行く」と答えたという。生きることをとことん味わい、考え、困難を抱えながらも前に進もうとする人にとって「竹内レッスン」はまさに足下から続く「砂漠のかなたの火」ともなろう。

八百屋のおばさん

 わたしのいる山の上から保土ヶ谷駅に向かうには、S字カーブを歩いていったん鎌倉街道へ刺さる道に出るか、ゴミ集積所から左へ折れて急な階段を下り、保土ヶ谷橋の交差点からまっすぐ伸びている小路に出るしかない。交差点の同じ場所に立つのに、階段を使うほうが二分ほど早い。
 だから、出がけに秋田の父から電話が来て、「台風がこっちに曲がってくるかと心配で眠れなかったが、逸れて行ってしまったからまずは一安心、いまやられた日にゃあ元も子もねぇ、先週あたりから稲穂もだいぶ赤くなり…」などとのんびり話が始まれば、「親父、そんな話、いまゆっくり聞いていられねんだよ。会社に行く時間だからまた今度な」ガシャン! と電話を切るしかない。
 ベランダのガラス戸を閉め、ガスの栓を閉めたか確認し、外へ出る。速歩で階段へ向かい、転ばぬように注意しながら急いで下りる。小路にぶつかったら右へ。と、八百屋だ。山形出身の七十過ぎのおばさんが元気に切り盛りしている。小料理千成で会うこともある。とてもゆっくり丁寧にあいさつするおばさんで、「おはようございます」が七秒かかる。七秒違えば信号が黄から赤に変わるのに充分だから、急いでいる時は、申し訳ないが、おばさんが道路に背中を向けて仕事をしていることをいいことに、あいさつ無しでスーッと音を立てずに通り過ぎることもある。そのおかげでギリギリ次の信号を待たずに交差点を渡り切れる時もあるのだ。
 さて、親父からの電話で家を出るのがいつもより少し遅れた日のこと、八百屋のおばさん、あっちを向いていてくれよと願いながら前を通ったら、腰を屈めてあっち向きに何やら仕事をしていたから、ホッと胸を撫で下ろし、スーーーーッと通り過ぎようとした。と、時も時、「あ、鎖、骨、の、ベ、ル、ト、が、取、れ、ま、し、た、ね。良、か、っ、た、で、す、ね、え。楽、で、し、ょ、う。行、っ、て、ら、っ、し、ゃ、い」恐ろしく長い時間に感じられた。三十秒近くかかったろう。わたしはもはやあきらめて、信号をひとつ遅らせることにし、涙目になりながら、「は、い。あ、り、が、と、う、ご、ざ、い、ま、す。と、て、も、楽、で、す。で、は、行、っ、て、き、ま、す」と言って交差点に急いだのであった。

羽化登仙

 知人から写メールが送られてきた。さなぎから羽化したばかりの白い蝉。写メールを自分で撮って誰かに送ったことはないが、受け取ることはできる。その写真を見ているうちに、中学以来何度か読み返してきた中島敦の「山月記」を思い出した。
 若くして科挙の試験に合格しながら役人の身に甘んずることを潔しとせず、ほどなく官吏を辞め故郷で詩作にふけるも、一向に名は挙がらず、生活は次第に苦しく、仕方なくまた地方官吏となり糊口をしのぐようになった男が、あるとき公用で旅に出た途上、己の名が呼ばれる気がしてひょいと宿を出、草むらを走っているうちに虎に姿を変えてしまうという、あの奇想天外な小説である。
 きのう、久しぶりに社を訪ねてくれた友達と昼食を共にしながら旧交を温めた。友達はカツ丼。わたしは肉うどん。太宗庵の肉うどんは天下一品! 友達は丼に一粒のご飯も残さず平らげ「こんなに美味いカツ丼は何年かぶりに食った」としみじみした声で言った。二人分の勘定を済ませ、店を出、互いの健康を気遣い言葉を交わして別れた。
 歩道まで枝を伸ばした陰に隠れ、坂をてくてく登りながら、写メールの白い蝉を目に浮かべ、わたしはまた虎の話を思い出していた。己の才能を恃む気持ちと才能の無さを恥ずかしく思う尊大な羞恥心が自分を虎にしたのだと男は、偶然山道を通りかかった旧友に心中を洩らす。二人は若くして困難な科挙の試験に合格した仲間、友人は官吏としてすでに高い位に昇っている。
 人間のこころが残っているうちにと男は、自分がかつて作った詩で今も諳んじているものを口にし、友人は共の者に言いそれを書き取らせる。友人は、男の詩に才能のほとばしりを感じはしたが何か大事なものが決定的に欠けているとも思った。が、それを口にはしなかった。さらに男は、自分の今の身の上を詩に託して吟じた。最後に男は、故郷でおそらく苦しい生活を強いられているであろう妻子のことを友人に頼む。そのあとで男は自嘲気味に言う。自嘲は男の若い時からの癖なのだ。「本当は、まず、このことの方を先にお願いすべきだったのだ、己が人間だったなら。飢え凍えようとする妻子のことよりも、己の乏しい詩業の方を気にかけているような男だから、こんな獣に身をおとすのだ」
 いまよりも、もう少し若い時ならば、こういうところにグッと来たものだ。涙を浮かべたこともあったかもしれない。でも今はそれよりも、前は気づいていなかった次のような男の言葉がグッと来る。「一体、獣でも人間でも、もとは何か他のものだったんだろう。初めはそれを憶えているが、次第に忘れてしまい、初めから今の形のものだったと思い込んでいるのではないか?」
 この頃、そんなに深酒しないのに記憶が飛ぶことがある。記憶が飛ぶなんてことがあるのかと若い頃は思ったものだが、たしかに飛ぶ。そうすると、記憶が飛んでいるときというのは、どうなっているのか。見当もつかない。曇りガラスの向こうに酔った己の姿が写し出されるようでありながら、あまり目を凝らして見つづけていると頭の芯がズキズキしてくる。薄い羽の生えた虫や虎や訳の分からぬものが一瞬見えるような気がしても、気がするだけで、それ以上つづけると頭が破裂しそうになって止めるしかない。仕方なく、酔ってそのまま布団にばったりと倒れ込む。こういう時に見る夢はいつも決まって空を飛ぶ夢だ。これまで何十遍となく見てきたその最中に、ひょっとしたら横になったわたしの肩甲骨から羽が生えていないとも限らない。朝起きて、ぐっしょりシーツが濡れているのは、酒が抜け出たのか、夜、夢中で羽ばたいたことの痕跡かは誰にも分からない。羽化登仙という言葉がある。『大辞林』によれば、中国古来の神仙思想などで、人間に羽が生えて仙人になり天に昇ること、また、酒に酔ってよい気分になることのたとえ、とある。
 さて、写メールの蝉だ。この蝉は何から化して蝉になろうとしていたものか。さなぎからの場合ももちろんあろうけれど、この悲しいくらいの威厳はただごとではない。それに蝉の季節はもう終りに近い。すると、なじみの店で飲んでいた白髪混じりの老人が羽化登仙の気象でいまここに在るとしても、それほど不思議な気はしない。世の中は何が起こるか分からないのだし、年齢と共に、何が起こるか分からない世の中のほうがおもしろいじゃないかと思えてくる。きょうはどこで羽化登仙と洒落込むかとこれを書きながら考えているところだ。

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奥邃パンフ

 創業の年に始まった『新井奥邃(おうすい)著作集』が、いよいよ完結する。
 刊行開始に合わせて作ったパンフレットの残部がちょうどなくなり、全巻完結となれば、それはそれでセールスポイントだから、各巻から奥邃の言葉を引用したり、これまで月報に書いてくださった執筆者の名前と論考タイトルを入れるなどして、新しいパンフレットを作った。今日、下版。
 キャノンのEZPSという編集機で作ったのだが、この機械もそろそろお役目ご免の時期を迎える。『著作集』はこの機械がなければ作れなかった。ハードに記憶されている作字は全部『著作集』関係。パソコンでの作字にくらべると隔世の感がある。
 ゲラができて若頭ナイトウに校正を頼んだところ、間もなく、かんらからと高笑いが部屋中に響いた。校正しながら笑い出すとは怪しからんと、ふと見れば、顔を赤くして苦しそうにしている。彼はよく笑う男だから仕方ないとしても、こんな硬い内容のパンフレットを見て笑うというのはよほどのこと。どうした。訊けば、表紙に入れた「生命の機は一息に在り。」がいかにも三浦らしく可笑しいのだという。なぜ。どうして。
 他の「新井奥邃著作集」や「工藤正三、コールダニエル編纂」や「全九巻・別巻一」とは全然レベルが違う。レベルを異にする言葉がいきなり、何の前触れもなくボッと入ってくるところがいかにも、なのだそうだ。言われてみれば確かに、という気がしないでもないが、わたしとしては、奥邃といえばなんといってもこの言葉と思うから別に違和感はない。が、若頭にしてみれば、レベルの異なる語彙を並べて違和感を感じないことに違和感を覚え、とっても可笑しいのだろう。
 それはともかく、「生命の機は一息に在り。」気になる言葉だ。しかし、分かるにはもう少し生きてみないとだめかもしれない。長く生きたからって分かるとは限らないが…。九月十一日には、田中正造と新井奥邃に関するシンポジウムが、渡良瀬川研究会、新井奥邃記念会ほかの主催で開かれることになっている。

連想ゲーム

 編集中の『刺青墨譜 なぜ刺青と生きるか』の装丁ラフ二案を著者に送付。
 第一案は、「見る-見られる」ことを象徴的に表現するため、顔にメイクを施した男性の眼を画面一杯にあしらった。眼の縁、メイキャップの線一本一本が特別の意味を帯びてきそうでおもしろい。たがおが作ってくれたラフを見、古代人の信仰と知の結晶、あのナスカの地上絵を連想する。男性の顔のメイク、そもそも愛知県で見つかった人面文土器の刺青を忠実に再現したもの。
 第二案は、稀代の写真家・橋本照嵩に撮ってもらった刺青写真のうち、女性が膝を抱えて丸くなった背中をとらえたもの。丸くなっている分、魚眼レンズできみを覗いて、みたいになり、宇宙船から見た地球表面のようでもある。胸のかげりが細胞分裂を繰り返す前の受精卵をも連想させ、時間性、記憶の意味を見る者に告げている。天女が命のエネルギーを吹き込まれ、今まさに飛翔せんとするかのようだ。
 刺青、「眼と時間」ということに結局なるだろうか。痛みを伴い。ふむ。
 沖縄の針突(はづき)の写真を本にどうしても入れたくて、ポーラ文化研究所に連絡したところ、まったく偉ぶるところがなく、とても親切に対応してくれたうえに、欲しい写真が入った貴重な雑誌を、貸してもらえればありがたいと思っていたら、なんと売ってくれた。ありがたし! そこに針突に関する文章を書いている当間先生(写真も)に転載許可のお願いをした際、すぐに快諾してくださったのも嬉しかった。
 さて、どんな本に仕上がるか。来月末の刊行。