前川清

 帰宅後テレビを付けたら前川清がデビュー曲「長崎は今日も雨だった」を歌っていた。彼はむかし、内山田洋とクールファイブというグループのボーカルだった。前川のほかに、クールかどうかは知らないが、前川の後ろで5人がときどきアワワワ〜♪とかいって、口三味線みたいなことをしていた。前川があの独特の縦皺を眉間にこしらえ熱唱している後ろで、5人は割りと暢気そうに見えた。
 それはともかく、あの頃の前川清はカッコ良かった。今のコミカルな彼からは想像できない。1969年。ぼくは12歳。当時の前川は、テレビに出ているというのに歌う以外は全くしゃべらなかった。司会者がマイクを向けてもしゃべらなかった。幼いわたしは幼いなりに、男というのはこうでなければならないと思った。男の中の男! わたしはどちらかというとお調子者でキャッキャと騒ぐほうだったから…。子供の浅知恵で前川清の真似をして次の日から一切口を利かないことにした。そうしたら「どうした。腹でも痛いか」と無理解な担任の先生が心配して声を掛けてくれた。男のダンディズムがこの先生には分からないのだと思った。前川清の真似は一日ももたなかった。無口を押し通すなんてとても無理。すると、無口な前川清がますますカッコ良く見えた。
 その後、前川清の無口は本質的なものでなく、テレビ的なものだと知った。無口どころかひょうきんで、むしろよくしゃべる人だった。が、それはもっと後のこと。話を戻して1970年。氷が溶け出すごとくに前川清の重い口が少しずつ開かれるようになっても、あこがれがガラガラと音を立てて、というほどのことはなく、無口な前川が無口であろうがなかろうが次第に関心が薄れ、中学に入ったわたしは、好きな娘ができたり勉強させられたりで身辺にわかに忙しくなった。
 1971年、前川は藤圭子と結婚。しかし、わたしにとってそんなことはもうどうでもよく、かつて、といっても二年前、あんなにあこがれていたのが嘘のようだった。そうなったのには理由がある。若さはもちろんだが、既に解散していたというのにビートルズの熱風がようやく秋田の田舎にも吹き始めていたから。ヘイ、ジュ〜♪ もはや日本の歌など聴く気になれなかった。