水の歴史

 写真家の橋本照嵩さんから電話が掛かってきて、北上川と馬についての話になった。
 北上市の馬市はつとに有名で、今回の写真集『北上川』には博労たちで賑わう馬市の様子が活写されている。その中の一枚に、腰を落とし後ろ足を踏ん張って力みなぎる圧倒的な写真がある。まさにホースパワー! こうでなくっちゃ。競馬をやる人には悪いが、日本の馬は母体はなんといっても農耕馬だ。乾いた土の上を歩く走るのと、ぬかる水田、苗代に踏み入りバランスを保ちながら歩き労働するのとではわけが違う。働く馬の美しい姿をとらえた稀有の写真。馬だけではない。相撲だって柔道だって腰を低く落として地面をつかむ。摺り足で歩く。阿波踊りはガニ股で上半身は波打つようなのに骨盤は水平に保たれ抜き足差し足で歩を運ぶ。歌舞伎で見栄を切るのだって大地をつかみ踏ん張ることでポーズが決まる。この日本ではとにかく足腰を踏ん張ることで独特の文化が形成されてきたのだ。好きな賢治の、どっどどどどうど どどうどどどう、も、祈りは天上へ向かわずに足下へ向かう。天も地もひっくり返せば同じことだ。
 そんなことを電話で話していて不意にある絵が思い浮かんだ。小出楢重の「支那寝台の女」。ぼくはあの絵が大好き。光の中で裸身がうねり、じっと見ていると、きらりと水滴が垂れてきそう。光り輝いている。画家というものは恐ろしい。大阪出身の楢重が初めて日本女性の力溢れる足腰の美しさを描いた。天才にしてなせる業ということか。寝台の上で物憂げに横たわっていても血と肉に刻まれた時間の長さは覆うべくもない。「支那寝台の女」はまさか農作業はしていないだろうが、瑞穂の国の女には間違いないのだから、何千年もの水の歴史が裸身にたゆとうている。ふむ。興奮してきた。
 写真集には、ぼくが勝手に「シャガールの馬」と名付けた馬の写真もある。母馬とだろうか、目を閉じて顔と顔を摺り寄せている。馬一つ取っても文化の両義性について思いを馳せ、何が大事と考えさせられる素晴らしい写真集だと思う。これで税込3500円は安いじゃないか!