羽化登仙

 知人から写メールが送られてきた。さなぎから羽化したばかりの白い蝉。写メールを自分で撮って誰かに送ったことはないが、受け取ることはできる。その写真を見ているうちに、中学以来何度か読み返してきた中島敦の「山月記」を思い出した。
 若くして科挙の試験に合格しながら役人の身に甘んずることを潔しとせず、ほどなく官吏を辞め故郷で詩作にふけるも、一向に名は挙がらず、生活は次第に苦しく、仕方なくまた地方官吏となり糊口をしのぐようになった男が、あるとき公用で旅に出た途上、己の名が呼ばれる気がしてひょいと宿を出、草むらを走っているうちに虎に姿を変えてしまうという、あの奇想天外な小説である。
 きのう、久しぶりに社を訪ねてくれた友達と昼食を共にしながら旧交を温めた。友達はカツ丼。わたしは肉うどん。太宗庵の肉うどんは天下一品! 友達は丼に一粒のご飯も残さず平らげ「こんなに美味いカツ丼は何年かぶりに食った」としみじみした声で言った。二人分の勘定を済ませ、店を出、互いの健康を気遣い言葉を交わして別れた。
 歩道まで枝を伸ばした陰に隠れ、坂をてくてく登りながら、写メールの白い蝉を目に浮かべ、わたしはまた虎の話を思い出していた。己の才能を恃む気持ちと才能の無さを恥ずかしく思う尊大な羞恥心が自分を虎にしたのだと男は、偶然山道を通りかかった旧友に心中を洩らす。二人は若くして困難な科挙の試験に合格した仲間、友人は官吏としてすでに高い位に昇っている。
 人間のこころが残っているうちにと男は、自分がかつて作った詩で今も諳んじているものを口にし、友人は共の者に言いそれを書き取らせる。友人は、男の詩に才能のほとばしりを感じはしたが何か大事なものが決定的に欠けているとも思った。が、それを口にはしなかった。さらに男は、自分の今の身の上を詩に託して吟じた。最後に男は、故郷でおそらく苦しい生活を強いられているであろう妻子のことを友人に頼む。そのあとで男は自嘲気味に言う。自嘲は男の若い時からの癖なのだ。「本当は、まず、このことの方を先にお願いすべきだったのだ、己が人間だったなら。飢え凍えようとする妻子のことよりも、己の乏しい詩業の方を気にかけているような男だから、こんな獣に身をおとすのだ」
 いまよりも、もう少し若い時ならば、こういうところにグッと来たものだ。涙を浮かべたこともあったかもしれない。でも今はそれよりも、前は気づいていなかった次のような男の言葉がグッと来る。「一体、獣でも人間でも、もとは何か他のものだったんだろう。初めはそれを憶えているが、次第に忘れてしまい、初めから今の形のものだったと思い込んでいるのではないか?」
 この頃、そんなに深酒しないのに記憶が飛ぶことがある。記憶が飛ぶなんてことがあるのかと若い頃は思ったものだが、たしかに飛ぶ。そうすると、記憶が飛んでいるときというのは、どうなっているのか。見当もつかない。曇りガラスの向こうに酔った己の姿が写し出されるようでありながら、あまり目を凝らして見つづけていると頭の芯がズキズキしてくる。薄い羽の生えた虫や虎や訳の分からぬものが一瞬見えるような気がしても、気がするだけで、それ以上つづけると頭が破裂しそうになって止めるしかない。仕方なく、酔ってそのまま布団にばったりと倒れ込む。こういう時に見る夢はいつも決まって空を飛ぶ夢だ。これまで何十遍となく見てきたその最中に、ひょっとしたら横になったわたしの肩甲骨から羽が生えていないとも限らない。朝起きて、ぐっしょりシーツが濡れているのは、酒が抜け出たのか、夜、夢中で羽ばたいたことの痕跡かは誰にも分からない。羽化登仙という言葉がある。『大辞林』によれば、中国古来の神仙思想などで、人間に羽が生えて仙人になり天に昇ること、また、酒に酔ってよい気分になることのたとえ、とある。
 さて、写メールの蝉だ。この蝉は何から化して蝉になろうとしていたものか。さなぎからの場合ももちろんあろうけれど、この悲しいくらいの威厳はただごとではない。それに蝉の季節はもう終りに近い。すると、なじみの店で飲んでいた白髪混じりの老人が羽化登仙の気象でいまここに在るとしても、それほど不思議な気はしない。世の中は何が起こるか分からないのだし、年齢と共に、何が起こるか分からない世の中のほうがおもしろいじゃないかと思えてくる。きょうはどこで羽化登仙と洒落込むかとこれを書きながら考えているところだ。

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