次期ホームページ

 ご好評いただいている小社ホームページだが、またまたリニューアルする。作ってくれている小社アートディレクターの多聞君いわく、こんなにリニューアルするホームページも珍しい…。五回目だ。多聞君を交え、皆で次期ホームページのコンセプトについて話し合った。
 これまでも、社の方向性に合わせその都度作り替えてきたが、今度のが最大となろう。キーワードは「人から本へ」。
 会社をはじめた当初、本を宣伝したくても本がなかった。それと、一般的に言って、出版社というのはなんだか敷居が高い。この二つの問題にぶつかり、座礁しかけ、あきらめるしかないのかと思った矢先に、ひらめいた。そうか。本がなくても人がいる。人を紹介しよう。こんな人たち、こんな仲間で出版社をはじめました、友達も応援してくれています、どうぞよろしく! みたいなホームページを作ろう。
 きのう、多聞君に言われて思い出したのだが、当時わたしは彼に「俯瞰できる分かりやすいものを作ってくれるな」「わくわくしながら宝探しするような、子供が魚釣りに出かけるみたいな、小さくても発見のある、そういうホームページを作って欲しい」とお願いした(のだそうだ)。そのコンセプトが今に踏襲されている。
 言われて気づいたが、主観を大事にしようとの気持ちが大いに働いていたのだろう。ところで、このたびのリニューアルでは、「主観」よりも「客観」に重きを置き、本を出版したい人、本の情報を知りたい人にとって分かりやすく見やすく俯瞰できるものにしたい。そのうえで、どんな人たちがどんな感じで本づくりをしているのかなぁと興味を持ってくれる人のために、これまでの読み物風のものもある程度残したい。ということで、グランドリニューアル! します。年内オープンを目指して。
 多聞君が最後に言った。「きちんときちんと見やすくなるのはいいが、あまり度が過ぎると息苦しくなる。どこかに遊びの部分をぜひ入れたい」。まったく同感です。そこで間髪入れずに提案した。春風風呂。ブログにかけて。ゆったりまったり風呂に浸かりながらいろいろ、ああでもないこうでもない、と、そっかぁ、なるほどねと気づいたり。あきらめたり、興奮したり、いろいろ。でも、ここのところはまだイメージだけで中身がない。語呂がよければすべて良しの気象。春風風呂。いいじゃないか。
 ということで、わくわくしながらホームページのこと、会社のことをこれからもしていきます。

装丁は楽し!

 前の勤め先では編集担当者が本の装丁もするのが普通で、相当の数をこなした。会社をはじめてからも何冊かは自分でやった。『新井奥邃著作集』がそうだし『明治のスウェーデンボルグ』や『梅津八三の仕事』。
 『明治のスウェーデンボルグ』では木の感じを出したいと思い、実際に板を使って装丁した。梅津八三のは木とか土でなく、もっと硬質の、ダイヤとかそういう。車で言ったらジャガーだろう。ジャガーが好きだし。「個人的」もいれていいんだよ装丁に。というわけで、そういう質感にしたかった。文章から感じられる質感がオモテに出てくれるとうれしい。
 今は直接装丁することはない。でも、文章を読み、文章から得られたイメージや質感を装丁担当者や装丁家に伝える。自分で装丁するのとは違い、どこまで言葉でイメージを相手に伝えられるか、そこに困難もおもしろさもある。
 今やっている『刺青墨譜 なぜ刺青と生きるか』の装丁ラフが昨日おおよそできたが、それとはまったく別のイメージが湧いた。けさ、湧いた。こんなものだねぇ。ぎりぎり考えて、どうもしっくりこなくて、全然別のことをやっていたり、一晩寝たりすると、地下水が湧き出すみたいにふっとアイディアが浮かぶことがある。おもしろいし楽しい。出社したらさっそく田顔に作ってもらおうっと。

読書感想文

 夏休みといえば、読書感想文! でも、嫌いだったねぇ。提出しないわけにもいかないしなぁ、で。
 好きな本を読んで、なんでもいいから感想書けっていわれたら、感想ぐれぇはあるわさ。おもしろかった。つまらなかった。ふつう。でも、それだけじゃだめで、どうしておもしろいと感じたのか、つまらないと感じたのか書けっていうんでしょ。きちんと読んだという証しも文中に差し挟みながら…。でも、この読書感想文てやつ、問題は、だれに当てて書くかってことなんだよ。感想というのは、だいたい私的なものであって、それを文章にすること自体なかなか至難の業なのに、加えて、読んでもらう相手が特定できないってことが悩みの種だ。
 まず、担任の先生か国語の先生あたりに向けて書くってことなんだろうけど、うがった言い方をすれば、当の先生は一体どれくらいの深さで課題図書を読んでいるっていうのさ。だって、その先生が見て、この感想文はいい、これはダメって判断するんでしょ。それがそもそも問題じゃねぇか。私的な感想を判定するのっておかしいじゃない。また、先生が見て、これはと思うものを県の「読書感想文コンクール」なんかに応募したりもするんでしょ。そういうことを考えると、「感想」という極めて私的なものが、実はちっとも私的なものでないわけよ。
 だからこの「読書感想文」てぇやつ、本を深く読み込むことよりも、大人(この場合、担任の先生や国語の先生)の隠された意向をどれだけ的確に察知するか、いわば、上司におもねる部下を小学校の段階から育成する道具になっていやしまいかとも思うのだ。意地悪な見方かもしれないが、そんな気がする。ラブレターならいざ知らず、将来作家になるつもりならいざ知らず、なんで心の奥のふるえをあんたに明かさなくちゃならないのさ、なんて。してみると、点数の高い読書感想文というのは、本を読んで感動したその感動の質よりも、本の内容を踏まえ、担任の先生が子供たちにこの本をこう読んでもらいたいと考えている(なぜそう考えているのかまで察知し)意向を読み解く体のものにならざるを得ないだろう。
 そんなことを今ショボンとした気持ちで振り返る。「読書感想文」には、昆虫採集みたいなドキドキワクワク、自由で伸びやかなイメージと、ものすごくきつい「縛り」のイメージが重なっていた。どんなふうに書けばいいのか。トホホ…。やれやれ。やんちゃな孫をおもんばかる老人な気分だったよ全く。苦手だったなぁ。

水の都

 NPO法人富士山クラブ事務局長の渡辺豊博さんに三島を案内してもらいながら、いろいろおもしろい話をうかがった。
 まず、三島という土地だが、富士山が噴火したとき溶岩が流れ、その舌先がたどり着いたところに位置しているという。むかしは富士登山のひとつの玄関口で、そのことを記載した碑も渡辺さんたちの活動で旧に復した。
 自然としては、富士山に降った雨が土に潜り、長い時間を経た後に、湧水となって町のあちこちから湧き出している。古くから「水の都」と称えられた所以である。渡辺さんに付いて町の中へ入った時、こころなしかひんやりした感じがしたので、そのことを尋ねてみた。水がそこここから湧き出しているせいで、普通は町へ入ればムッとするところ、三島は夏でも涼しいのだという。
 営業のアルバイトで会社に来ているMさんは、いま大学四年生。富士真奈美と同じ三島出身。卒論は「ヴァージニア・ウルフと水」だとか。ヴァージニア・ウルフを取り上げるのに、なぜ水との関連でそうするのか尋ねてみたことがあったが、その時は(もちろん理由はあるにしても)納得のいく答えが得られなかった。しかし、三島を一日歩いてみて腑に落ちる気がした。こんなに水の豊かな土地、各所で水が湧く「水の都」に生まれ育った彼女にしてみれば、水は空気以上に呼吸し、なくてはならないものとしてあるのだろう。本人が意識するよりもさらに深く染み込んで、その意味を捉えきれずにきたのかもしれない。
 想像力の源といったら、どこから生まれてくるのか雲をつかむような話ながら、案外、生まれ育った土地の水や空気や光、それを栄養にして育つ食物やに根ざしているのではないか。そうそう。詩人の大岡信も三島出身だそうだ。わたしはそれほど熱心な読者ではないけれど、大岡さんの書くものにも、きっとそこここで水が湧き出しているのだろう。

グラウンドワーク三島

 「富士山」本企画の打ち合わせで三島へ。NPO法人富士山クラブ事務局長の渡辺豊博さんに会ってきた。
 渡辺さんは富士の裾野・静岡県三島市で育った。(生まれはわたしと同じ秋田だとか)三島は古くから「水の都」として有名であり、素晴らしい環境を誇ってきたが、昭和三十六年以降、上流地域で産業活動が活発化したことにより、地下水が汲み上げられ、川や湿地から湧水が消失、ゴミが捨てられるようになった。
 憂慮すべき状況の中、平成三年、渡辺さんは仲間を集め「三島ゆうすい会」を設立、水を守り、育てるための市民活動を開始。当時から、水を供給している母なる山・富士山の環境保全なくしては三島の再生は成就できないとの信念で、着実な活動をこれまで積み上げてきた。
 平成四年には、一つの市民団体だけの努力では運動に限界があるとの認識から、イギリスを参考に、市民・NPO・行政・企業とが連携・協働し「グラウンドワ−ク三島(現在NPO法人)」を立ち上げる。本家であるイギリスの団体が見に来られ、「これはイギリスを超えている」と感想を洩らしたとか。
 ゴミ捨て場化した源兵衛川をホタルが乱舞する美しい川へと再生させ、絶滅した水中花・三島梅花藻を復活、井戸や水神さんを整備するなど、三島市内三十箇所において具体的で実践的な市民活動を展開してきた。平成十六年度には、その源兵衛川が、土木学会の景観・デザイン委員会デザイン賞「最優秀賞」を受賞した。
 渡辺さんたちのやってきた、今もやり続けていることを「グラウンドワーク三島」のホームページから超簡単に抜粋説明すると以上のようなことになろうか。
 渡辺さんの案内で、渡辺さんたちが積み上げてこられた活動の成果、拠点を見せていただき、目から鱗の感を強くした。一人の人間が机に向かってやった仕事でないことが素人目にも分かる。聞けば、何年もかけて議論し、スクラップ・アンド・ビルドとは真反対の「旧に復する」運動を展開してこられたとか。それは昔を懐かしむという懐古趣味的なものでは(昔を知っているお年寄りが懐かしむことはあっても)全くない。暮らしをラディカルに考え科学的知識に裏付けられた証しとしてあるようだ。十年以上かけてやってきたことに時代がようやく追いついたということか。土木学会が主催するデザイン賞「最優秀賞」の受賞がそのことをよく物語っている。おもしろい本ができるとの実感を持ちながら横浜に帰ってきた。
 ところで、三島の鰻があんなに美味いとは今の今まで知らなかった。

自発的

 先日、アルバイトに来ている若い二人を呼んで、わが社が一番大事に考えているのは、なんといっても自発異性であることを、ん!? 間違えました、自発性であることを力説。自発性が育つにはなんぼか時間はかかるけれど、それがいったん芽を出したとなると、文字通り、いろんな秘められていたものが封印を解かれたようにぐんぐん伸び始める。特に若い人はそうだ。それを見るのが楽しい。
 営業のアルバイトに来ているMさんのことは以前ここに書いたことがあるが、彼女が書店廻りをしている時に、ウチの本が割りと目立つところに並べられていて、それがよほどうれしかったらしく、うれしさのまま写メールを会社のパソコンに送ってきたことがある。会社に居合わせた者みな、彼女の行為に目をみはった。
 写メールに添えられていたコメントもさることながら、わたしはその勇気に感動した。上司から指示されただけのことを十全に果たすのが良くて、それ以外のことをするのは余計だという考えもあろうが、わたしはそうは思わない。極論すれば、自発性だけが状況を変えていく力になると思っている。だから、わたしは毎日、出社する前、和室に置いてある小っちゃな仏壇(亡くなった祖父母の写真と水を入れた湯のみが置いてある)に手を合わせ、会社のみんながそれぞれ個性を発揮し、自発的に仕事ができますようにと祈っているのだ。

ハトの死

 JR桜木町駅は、改札を出て右へ折れれば野毛方面、左へ折れればMM21、ガード下の壁画を楽しみながら歩くには右へ出なければならないが、天気のいい日は、わたしは左へ出て、車のあまり通らない裏道を歩いて紅葉坂へ向かうことにしている。
 ひと月ぐらい前だろうか、車に轢かれてハトが死んでいた。それを横目に見ながら紅葉坂の交差点へ至る。翌日は朝から雨だった。わたしはハトのことなどすっかり忘れてガード下のおもしろくもない絵を見ながら歩き、坂に向かう交差点で信号が変わるのを待ちながら傘を差した。その次の日も雨だったから、わたしはまたガード下を歩いたが、昼、食事をしに外へ出た時には雨はすっかり止んでいた。昼食を終え帰社する時分には日差しは暑いぐらいになり、首筋から気持ち悪い汗が流れた。
 三日目はかんかん照り。桜木町駅九時四三分着。暑いは暑いが、広々したところを歩きたい気がして左へ折れた。スターバックスではモーニングセットを横に置きながらノートパソコンを睨んでいるサラリーマンや、取引先のお偉いさんとでも話しているのか、でかい声で敬語の使い方に注意しながら携帯電話を耳に押し当てているサラリーマンの姿が目に付いた。外国の真似なのだろう、いまは外にテーブルを出している喫茶店がやたらと多くなった。わたしは、固く決めているというわけではないけれど、外のテーブルには着かない。ユニクロの店は閉まっていた。
 ハトがいた。三日前はまだ厚みがあったのに、さらに車に轢かれでもしたのか、もうすっかり薄くなり、のしイカかカワハギの干物みたいに哀れな姿をさらしている。でも、足先だけは薄くなることを拒否するかのように頑固に頑張っていた。それからもわたしは朝の出勤時、雨が降らないかぎりそこを通って、ハトの行く末を見届けることにした。(考え事をしながら歩いているうちに、ハトのいる場所を通過していることも間々あったが)ハトはもう、それにかつて生命が宿っていたなどとはおよそ考えられない体のものへと変貌を遂げ、のしイカどころか、ついにはフレーク状を呈し、あんなに頑張って厚みをキープしていた足先もどこかへ吹っ飛んじまったみたい。
 お盆休みが明け、日差しは相変わらずながら、風は、さやかに見えなくても、そこはかとなく秋の到来を告げている。桜木町駅に降り立ち、改札を出ていつものように左へ折れた。サラリーマンとノートパソコンに目を遣りながら広い裏通りに入った。注意して見たのだが、ハトはどこにもいない。もと居た場所へ近づいて見もしたが、跡形もなく消えている。ひとつ溜め息をついてわたしはまた歩き出した。ガタンガタン、ゴトンゴトン、停車前の嫌な音をさせながら頭の上を桜木町駅九時四八分発の大船行き電車が通った。暑さが金縛りになっていくようだった。