ラーメンと孤独

 

今月13日に谷川俊太郎さんが亡くなられたとニュースで知り、
思い出をこの欄に記しましたが、
その後も谷川さんのことを思い浮かべながら、
あることを思い出しました。
拙宅にお招きし、
手づくりのラーメンを供したときのことです。
どういう話の流れだったのか
は忘れてしまいましたが、
谷川さん「だって孤独は前提でしょ」
とおっしゃった。
孤独は、わたしにとりましても、だいじなことではありますが、
そんなに好ましいものではなく、
できればあまり陥りたくない。
そんなふうに思ってきたし、
いまも少なからず思っています。
ヒトはひとりでこの世にやってきて、
去ってゆくときもまたひとり、
といわれれば、そのとおりで、異論はないのですが、
正直なところ、
気持ちが穏やかではありません。
とじぇねワラシはいつの間にか、とじぇねジッコになっていた。
そういうわたしに降ってきたことば。
「だって孤独は前提でしょ」
前提。ゼンテー。
孤独を擬人化して、向き合ったり、仲よくしたり、
するような言説はよく耳にし目にするけれど、
前提となると、
足もとにあって、
二足歩行をはじめたニンゲンがニンゲンであることと同義にちかい感じもし、
目から鱗が落ちるような衝撃を覚えた
ことを思い出しました。
谷川さんの詩も読んできたけれど、
これからも読むと思いますが、
声をともなった直接のことばが大きく足下を照らします。
谷川さんのご冥福をお祈りします。

 

・蓑虫や無限といまの狭間にて  野衾

 

文学史の基盤

 

文学史というジャンルが割と好きで、日本のことでいえば、
小西甚一さんの『日本文藝史』や
ドナルド・キーンさんの『日本文学史』をこれまで読んできました。
じぶんとしては、
古典とされているものをけっこう読んできたけれど、
とてもじゃないが、膨大な作品を読み切れるわけではなく、
またそのつもりも時間もありません。
でも、
信頼できる文学史のすぐれたものを読むと、
は~、そういう内容のものでしたか、
と、おしえてもらえる、
それも楽しくおしえてもらえる気がして、
つい手にとることになります。
いま電車では、
岩波文庫に入っている
津田左右吉さんの『文学に現はれたる我が国民思想の研究』
の七巻目を読んでいて、
「文学に現はれたる~」という観点が、
いまのわたしの興味にマッチします。
クルツィウスさんの主著を手にとったのも、
奥のところで、そのこころが働いていた気がします。

 

モンテスキューとディドロにかんする余論は,
ラテン中世にたいする関係がみられぬという点では,
本書の設問の範囲には入らない.
しかし本書の主題は
「ヨーロッパ文学と各時代におけるラテン的文学との関係」
という拡大された設問へと有機的にみちびく.
私は「ラテン的文学の諸時代」については別の場所で論じたいと思う.
私が
モンテスキューとディドロについての論文を本書の余論のなかに採用したのは,
近代の文学史がもし人文主義的な基盤を足下に失う
ならば,
それは誤謬におちいる危険のあることを
これらの論文が示しているからである.
(E.R.クルツィウス[著]南大路振一・岸本通夫・中村善也[共訳]
『ヨーロッパ文学とラテン中世』みすず書房、1971年、p.846)

 

モンテスキューさんもディドロさんも、いまとても関心があり、
クルツィウスさんがこのように考えていた
ことを知ってうれしくなりました。

 

・着ぶくれて長き階段下の影  野衾

 

世界劇場としての人生

 

クルツィウスさんの『読書日記』
(この本には片仮名で「クルティウス」となっていましたが、
このごろは「クルツィウス」と表記されることのほうが多いようです)
がおもしろかったので、
主著とされる『ヨーロッパ文学とラテン中世』を手にとりました。
ぶ厚い本ですが、視座が広く、深く、
「文学に現はれたるラテン中世の精神」
というふうな観点から読了しました。
下に引用した箇所に共感を覚え、
『ドン・キホーテ』を読み直したくなりました。
同時に、
若き日のクルツィウスさんがシュヴァイツァーさんとともに過ごした時間へも
想像の羽がひろがります。

 

『ドン・キホーテ』の結末はこのことをよく表わしている.
才気ある郷士はその短い重病のあいだ深い眠りにおちいり,
その眠りから別人となって目覚める.
彼は正気のみならず,
その本当の名前,「善人」(el bueno)のアロンソ・キハーノをも
ふたたび見出した.
肉体的解体は同時に精神的回復であり,この回復において瀕死の病人は
「大声で叫びながら」神の憐みの証明をそこに認める.
癒された者としてドン・キホーテはおのが魂を手ばなす.
そして彼の生みの親,
「高齢になり死の苦しみにあっても,なお愛想がよく,
繊細な機知にみちた気高いセルバンテス」(フリードリヒ・シュレーゲル)
は死の床で,終油を受けたあと,
レモス伯に宛てて彼の最後の小説の献辞をつくった
――いくつかのcoplas antiguas[旧い詩句]にからんで彼の書くところでは,
「すでに片足をあぶみに載せながら」.
ロペやカルデロンの演劇におけると同様に、
ここでも現世的なものは超現世的なものと和解している.
この偉大なスペイン芸術は自然を少しもないがしろにしなかったが,
超自然もまたないがしろにしなかった.
フランス古典主義がボワローの口をかりて次のような指図をするとき,

 

[キリスト教(徒の信仰)の恐ろしい秘蹟は,
心たのしい飾りを受け入れなどしない].

 

それは文学を信仰から,またキリスト教を文化から解きはなつ.
そのことは精神世界の内部における一つの破綻を意味し,
次いでその破綻は個々の魂――パスカルの,ラシーヌの魂のなかで反復される.
神秘の厳粛さを
あまたの「心たのしい飾り」でつつむカルデロンの秘蹟劇は,
われわれには
ボワローによって法典化された芸術以上に人間的であるとともに
神的であるように思える.
アリストテレスを遵奉する古典主義は世界のみならず,
芸術そのものを狭める.
すべての芸術がその根源をけっきょく神に有する
のならば,
それによって芸術自体があらたな自由と無邪気さをかち得る.
芸術は神の前でなされる遊戯
であるとともに,
神が役柄をわりあてるgran teatro del mundo[世界大劇場]としての人生
そのものの象徴である.

(E.R.クルツィウス[著]南大路振一・岸本通夫・中村善也[共訳]
『ヨーロッパ文学とラテン中世』みすず書房、1971年、pp.808-809)

 

上の引用文中[  ]でくくった箇所は、
[  ]のすぐ上にフランス語が記されていますが、
ここでは省略しました。
また引用文中、
「レモス伯に宛てて彼の最後の小説」とあるのは、
『ペルシーレスとシヒスムンダの艱難』のことだと訳注にあります。
日本語訳が出ていますので、さっそく注文しました。

 

・冷え性の人に良いクスリあります  野衾

 

敵も味方も

 

敵の敵は味方、というようなことをどこかで読んだか聞いたか
して、
なるほどと思う節があります。
敵の反対語は味方。
たとえば、
わたしが敵対する人がほかのだれかと敵対している
とする。
そうするとわたしは、
敵対する人が敵対している(ややこしい)その人と味方になる、
そういうことでしょうか。
こういうことが往々にしてありそうなので、
いつのころからか、
味方をつくらないことをじぶん自身の教訓とするようになりました。
味方をつくるから敵ができてしまう。
しかし、ひとりぼっちが高じて、
こころが不安になると、
どうしても味方をつくりたくなる。
でもそこで踏んばって
味方をつくりたいこころをこころのままにしない。
味方をつくらなければ、敵、という観念も生じないのでは。
そんなふうに考えるようになりました。
友だちは味方とはちがいます。
ひととの関係で、敵、味方の尺度を用いないとなると、
なんだかよけいに寂しく、
日々、孤独になってゆくような気もしますが、
そうすると、
がぜん読む本の味わいがちがってくる
ようでもあります。
たとえば五百年前、千年前、それ以上むかしの本でも、
そこに記されていることばから、
その筆者のこころが
ゆっくりと静かにこちらに及んできて、
なるほどなぁ、
こういうことばを記すということは、
きっとこういうこころもちだったんだろう、
と感じ、しみじみ、
生きることのむつかしさと味わいを思わずにはいられません。

 

・綿入や読み終えし書をそつと閉づ  野衾

 

いねむりの味

 

家で本を読むのは、本棚横のソファにすわって、ということになっています。
二十年以上つかっているので、革が疲弊してきたらしく、
たしかコロナ前だったと思いますが、
専門業者をよび、
革の破れそうになっているところを直してもらいました。
あれから数年たちまして、
こんどは右手指先の触れる辺りの革がひび割れてきました。
このソファも、
わたしと同様だいぶ齢を重ねました。
読書の同行二人
といったところでしょうか。
このソファにふかく腰かけて本を読んでいると、
食事の時間や散歩の時間は離れても、
何時間でも、一日でも、読みつづけられますが、
途中一、二度、眠くなることがあります。
大きなあくびが出ますから、からだが眠りを欲していると気づきます。
本を横において、リクライニングを倒し、
目をつむります。
目をひらき、壁の時計を見やると、
十五分、二十分たっています。
あたまがスッキリし、なんとも気持ちがいい。
横に置いた本をふたたび手にとり、つづきを読み始めます。
以前は、本を読み、疲れてそのまま眠ると、
金しばりに遭うことがありました。
が、
このごろは、
そういうこともなくなった。
なので、
あくびが出ると、しめた!
となって、
すぐに本を横に置き、リクライニングを倒して目を閉じる。
たのしい居眠りの時間。

 

・不要不急なれど冬の散歩かな  野衾

 

やさしいこころ

 

仕事でもプライベートでも、とくに何ということもなく、
ふつうにしゃべっているのに、
ことばの意味を超えて、ことばに盛られたじぶんの声の冷たさにハッとする
ことがあります。
いけない! と感じて、
ひつよう最小限のこと以外はしゃべらないようにします。
どうやら疲れてくるとそうなりがちな気がする。
やさしくないなぁ、
と思う。
じぶんの体感体験としてそんなふうに感じることがあり、
ということは、
どなたでもそういうことがあるのかな
とも想像します。
「どうしてそんなこと言うの?」
「どうしてそんな言い方するの?」
と感じるときは、
そのことばを口にした人が、疲れ果て、その人が本来有っているよいところ
が隠れているしまっているかもしれない。
相手を否定したくなったら、じぶんはどうかと考える。
やさしいこころを、ことばに乗せたい。
わたしの叔母からこんな話を聞いたことがあります。
「亡くなった母(わたしの祖母)からいつも言われていたことがある。
なんだか分かる?
それは、いちど口から出たことばは戻せない
ということ。ときどき思い出す…」
祖母は、経験からそのことをみずからの教訓にしていたのかもしれません。
かざったことばでなく、あいさつや何気ないことばを、
やさしいこころで伝えたい。

 

・週末や佳きこともあり冬の月  野衾

 

さびさび!!

 

秋田のわたしの地方では、寒いことを「さび」といいます。
いくら大声で「寒い」といっても、
あまり寒くない。
「さび」といって、ようやく寒い。
いまこうして文章を入力しながら、小声で「さび」を実演してみて気づいた
のですが、
どうも「さび」の「び」が利いている。
「び」は濁点なので、
なんだかからだにヒビでも入るようだし、
ガラスがビビビ!とふるえる
ようでもあります。
「さび」を重ねて「さびさび」といえばさらに寒く、
「う~っさびさび!!」とやれば、これはもう、身も凍るほど寒い
わけです。
きのうは寒かったですが、サビ、
ではなかった。
「サビ」には、乾いた空からちらちらと雪が降ってくる、
天を見あげる子どものイメージも重なります。
ところで。
きのう、このブログに「谷川さんのこと」を書きました。
一日の仕事を終え、
自宅近くの坂道を上っていたとき、
不意に思い出した。
谷川さんが佐々木幹郎さんに「佐々木さんだったら、どう言うの?」
と問いかけたとき、
佐々木さんは「スープが寝ている」
とおっしゃった。
それを思い出しました。
それで、
「寝ている」の説明がされ、
それを受けての谷川さんの「さすが詩人!」
でありました。
「立っている」に対して「寝ている」。
なんという褒めことば。
きのうのブログのそこのところを訂正しておきましたが、
きのう読んで、きょうは見ない人がほとんどかな
と思い、
ここに記します。

 

・ふくろふが五郎助呆と鳴く日かな  野衾