世界劇場としての人生

 

クルツィウスさんの『読書日記』
(この本には片仮名で「クルティウス」となっていましたが、
このごろは「クルツィウス」と表記されることのほうが多いようです)
がおもしろかったので、
主著とされる『ヨーロッパ文学とラテン中世』を手にとりました。
ぶ厚い本ですが、視座が広く、深く、
「文学に現はれたるラテン中世の精神」
というふうな観点から読了しました。
下に引用した箇所に共感を覚え、
『ドン・キホーテ』を読み直したくなりました。
同時に、
若き日のクルツィウスさんがシュヴァイツァーさんとともに過ごした時間へも
想像の羽がひろがります。

 

『ドン・キホーテ』の結末はこのことをよく表わしている.
才気ある郷士はその短い重病のあいだ深い眠りにおちいり,
その眠りから別人となって目覚める.
彼は正気のみならず,
その本当の名前,「善人」(el bueno)のアロンソ・キハーノをも
ふたたび見出した.
肉体的解体は同時に精神的回復であり,この回復において瀕死の病人は
「大声で叫びながら」神の憐みの証明をそこに認める.
癒された者としてドン・キホーテはおのが魂を手ばなす.
そして彼の生みの親,
「高齢になり死の苦しみにあっても,なお愛想がよく,
繊細な機知にみちた気高いセルバンテス」(フリードリヒ・シュレーゲル)
は死の床で,終油を受けたあと,
レモス伯に宛てて彼の最後の小説の献辞をつくった
――いくつかのcoplas antiguas[旧い詩句]にからんで彼の書くところでは,
「すでに片足をあぶみに載せながら」.
ロペやカルデロンの演劇におけると同様に、
ここでも現世的なものは超現世的なものと和解している.
この偉大なスペイン芸術は自然を少しもないがしろにしなかったが,
超自然もまたないがしろにしなかった.
フランス古典主義がボワローの口をかりて次のような指図をするとき,

 

[キリスト教(徒の信仰)の恐ろしい秘蹟は,
心たのしい飾りを受け入れなどしない].

 

それは文学を信仰から,またキリスト教を文化から解きはなつ.
そのことは精神世界の内部における一つの破綻を意味し,
次いでその破綻は個々の魂――パスカルの,ラシーヌの魂のなかで反復される.
神秘の厳粛さを
あまたの「心たのしい飾り」でつつむカルデロンの秘蹟劇は,
われわれには
ボワローによって法典化された芸術以上に人間的であるとともに
神的であるように思える.
アリストテレスを遵奉する古典主義は世界のみならず,
芸術そのものを狭める.
すべての芸術がその根源をけっきょく神に有する
のならば,
それによって芸術自体があらたな自由と無邪気さをかち得る.
芸術は神の前でなされる遊戯
であるとともに,
神が役柄をわりあてるgran teatro del mundo[世界大劇場]としての人生
そのものの象徴である.

(E.R.クルツィウス[著]南大路振一・岸本通夫・中村善也[共訳]
『ヨーロッパ文学とラテン中世』みすず書房、1971年、pp.808-809)

 

上の引用文中[  ]でくくった箇所は、
[  ]のすぐ上にフランス語が記されていますが、
ここでは省略しました。
また引用文中、
「レモス伯に宛てて彼の最後の小説」とあるのは、
『ペルシーレスとシヒスムンダの艱難』のことだと訳注にあります。
日本語訳が出ていますので、さっそく注文しました。

 

・冷え性の人に良いクスリあります  野衾