これからの出版社

 

 

紙の手ざわりと傷としての文字

 

ことし10月から弊社は26期目に入りました。
周囲を見わたせば、名のある出版社が経営難に陥り、町から書店が消えました。かと思いきや、新しい出版社ができ、新しい書店も生まれています。
15年前、秋田の地元紙に「出版社は絶滅危惧種!?」と題し、文章を書きました。出版業をなりわいとする人間として、おそれを感じながらの投稿でしたが、おそれはどうやら杞憂だったと、いまは思えます。
結論から言えば、出版社は、おそらく絶滅しない。しかし、不易流行のことばどおり、変わらぬものがあれば、他方で変わるものがあるでしょう。
2019年に発生した新型コロナウイルスの世界的大流行は、地球表面を覆うかたちになり、政治、経済、教育、医療、食料などの問題から、個人生活まで、一人一人が真剣に考えざるを得なくなりました。出版社に身を置く人間として、身に降りかかってきた事態をどう考えてきたか。
弊社では、現在、従来型の紙の本のほかに、電子書籍、オンデマンド印刷による三本立てで出版を行っています。時代の趨勢には逆らえず、また、媒体の利便性、在庫をかかえなくて済むことの意味は大きく、無視できません。気持ちとしては、三つのうち、どれが伸びていってほしいということは特にないのですが、新型コロナウイルスが感染症法上の5類に移行し、一定度の落ち着きを見せてきたとき、わたしは、あることに気がつきました。個人的なことながら、本を読むのは、文字を目で追いかける(点字の場合は指で触れる)のですが、紙の本の場合、意識すると、実にいろいろな持ち方で表紙はもとより、本文の紙に触り、撫でるようにしています。ハッとしました。というのは、40代の終りから50代にかけて、わたしはうつ病を患いましたが、その回復過程で、忘れられないエピソードがあるからです。三重の伊勢神宮、鎌倉の鶴岡八幡宮、横浜の伊勢山皇大神宮などを訪れた際、そこにある大木に抱きついた体験です。
ながい年月をかさねた大きな樹木に抱きつき、しばらくすると、だんだん気持ちが落ち着いてくるのを実感しました。このごろ紙の本を読んでいて、紙に触れながら、その感触が木に抱きついていたときと同じであると感じます。
新型コロナウイルスによる反省と教訓は、ひとことで言えば、なるべく接触を避けるということではなかったでしょうか。仕事上の打ち合わせでも、人と直接会わずにZoomによることが多くなり、現在もそれは続いています。しかし、接触を避けるようになって、かえって、接触=触れること、の意味を改めて考えざるを得なくなりました。
読書について言えば、紙の本を読むということは、まず、紙に触れることによって、文字を読むための落ち着き、こころを用意しているのではないか。紙の原料は現在いろいろですが、本来、パピルスをはじめ、三椏《みつまた》、楮《こうぞ》など、植物由来のもの。樹木に抱きついて気持ちが落ち着いたように、紙に触れることによる効能があるような気がします。
新聞の場合はどうか。グーテンベルクの印刷術の発明から150年ほどの開きがある新聞の大きな特徴は何か。それは、耳でなく、目だけでもなく、現在を現在として、直に指で触れ、いまを実感できるようになったことかと思います。新聞を撫《な》でながら、現在を読み進めると、指先に黒いインクが付着します。人は地面に触れて暮らすように、紙面に触れて「いま」を読みます。

紙の本を撫でながら読んでいて気づくも二つ目は、文字は傷痕《きずあと》であるということ。中国の伝説上の人物・蒼頡《そうけつ》は鳥の足跡を見て文字を作ったとされていますが、足跡が残るには、それが刻まれる地面がそこにあるはず。かつての活版印刷であれば、文字をなぞると、指先に紙表面の凸凹が感じられ、はるかの時を超え、蒼頡の伝説を想像できました。活版印刷がなくなり、活字による凸凹はなくなったけれど、そもそも紙は地面や人の皮膚のように、真っ平らではない。東洋医学に脈診《みゃくしん》というのがあります。両手首の脈のちがいを27種、感じ分けられるともいわれます。それぐらい指先の感覚は鋭く、敏感だということでしょう。文字は傷であるとの思いはまた、『聖書』からの連想です。
十字架にかけられ処刑されたイエス・キリストは、三日後に復活したとされています。弟子たちの中に、デドモのトマスという疑りぶかい人間がいました。十字架にかけられたときの傷に触ってみなければ、復活したイエスが本物であるとは認められないという心の持主でした。そのときイエスの発した言葉「あなたの指をここにつけて、わたしの手をみなさい。手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」(ヨハネによる福音書 20・27)を、聖書が“ザ・ブック”と呼ばれてきたことと関連づけて考えたい。
新型コロナウイルスのパンデミックを教訓として、地面に暮らしを立てながら、人と人との触れ合い、人と自然との触れ合い、人と紙との触れ合い、人と音楽との触れ合いを感じていたい。この世のかぎられた人生の意味と味わいを感じ、考え、時代の趨勢を見据えつつ、紙の風合いが感じられる本を、これからも出版しつづけたいと思います。

弊社は、明日28日より2025年1月5日まで冬期休業。6日から通常営業となります。よろしくお願い申し上げます。
どちらさまも、健康で無事に元気で明るく過ごせますよう、
お祈り申し上げます。

 

自分のなかに歴史をよむ

 

ドイツ中世史がご専門だった阿部謹也先生の本を
あまり読まずにこれまで来てしまいましたが、
装丁家の毛利一枝さんと電話でいろいろ話をしていると、
たびたび阿部先生の名前がでてきて
意識するようになったことも、だいじなきっかけだったと思います。
毛利さんは阿部先生と面識があり、
先生の本を多く手掛けてこられました。
『自分のなかに歴史をよむ』
という本がありまして、とても共感しました。

 

施設のあった丘のはずれにきたない小屋がありました。
そこには靴直しのおじいさんが住んでいました。
偏屈な人という評判で、
カトリック信者なのにミサにもほとんど出席せず、
神父や修道女の間で評判がよくありませんでした。
でも私はなぜかこの人が好きで、
いつもひまになると遊びにいったのです。
口数の少ない人でしたが、
私には親切で、
私たちが飢えていることをよく知っていて、遊びにいくと必ず何か食べものを
くれたのです。
でもそこで食べるのが目的でいったのではなくて、
ただおじいさんの仕事をみているだけでとても楽しかったのです。
みすぼらしい小屋でおじいさんは
いつも腰かけたままで仕事をしていました。
このおじいさんが亡くなったのです。
葬儀には私も参列しましたが、
そのときの司祭のことばが私には不審に思えたのです。
司祭や修道女から疎んじられていたおじいさんでしたから、
ほめたたえることばがなくても不思議はありません
でしたが、
そのとき葬儀をとり行った司祭は、
「〇〇さんはこの世で必ずしも十分なカトリックの信者として暮らしたわけ
ではありません。ですから彼の魂は今は煉獄にいると思います……」
といったのです。
そのとき、
はっきりことばで意識したかどうかは別にして、
今そのときの私の感じをことばであらわせば、
「おじいさんが天国にいるのか煉獄にいるのかは、神様でない司祭に
どうしてわかるのか」ということでした。
(阿部謹也[著]『自分のなかに歴史をよむ』筑摩書房、1988年、pp.27-28)

 

阿部先生は少年のころ、カトリックの施設におられたそうです。
先生は学者ですから、
ここに記されていることは事実でしょうが、
靴直しのおじいさんは、
たとえば、トルストイの小説にでも登場するような人物に思えてきます。
こういうひとに魅かれていた阿部少年に共感をおぼえます。

 

・石塀をゆるりくるりの木の葉かな  野衾

 

革命と軍隊

 

時計の時間は、いまもむかしも変らないはずなのですが、
カタカナ用語がふえたせいか、
そんなことはかんけい無いのか、
どんどん日常のスピードが加速していくように感じるきょうこのごろ。
ほんと、
きのうのことが三日ぐらい前みたい。
なんとなく、そういう感覚で過ごしているので、
西川長夫さんの本は、
歴史から目を離さないことの意味をあらためて考えさせてくれます。

 

八九年七月一四日

革命記念日の七月一四日、午前中はシャン=ゼリゼ通りに出かけて、
軍隊のパレードを見る。
革命二〇〇年のこの年は、例年の二倍近い部隊が動員されたという。
パレードの上空を戦闘機の編隊が低空で飛び、
重戦車隊がシャン=ゼリゼの敷石をゆるがせて通る。
毎年、
他国を攻撃するための巨大な新兵器が誇示される。
私はこの種のパレードが嫌いだが、
戦車や巨大な兵器や軍服を着た人間に対する自分のほとんど生理的な嫌悪感
を確かめるために軍事パレードを見に行く。
大統領や国賓たちが席を占める特別席を除いて広いシャン=ゼリゼ通りの両側は
見物客の人垣が、十重二十重に押し寄せていて
なかなか前に出られないが、
何とか割り込んでほんの数分間だけ間近で眺めていた。
自由主義、社会主義を問わず
世界のほとんどすべての大国が、
その国の最も重要な祭日に人殺しの道具を誇示して祝うという
この近代国民国家の悪習は、
いったいいつになったらなくなるのだろうか。
だがこの軍隊の原型(国民軍)を最初に作りだしたのがフランス革命であった
ことは忘れてならないだろう。
(西川長夫[著]『[決定版]パリ五月革命 私論 転換点としての1968年』
平凡社ライブラリー、2018年、p.384)

 

ことしの前半から半ばにかけ、
トゥーキュディデースさんの『戦史』を久保正彰さんの訳で読みましたが、
それを重ねて考えると、
人間て、どういうんかなぁとつくづく考えてしまいます。
紀元前415年にアテネ人はミロス島を攻撃、
住民を無条件降伏させたうえ、屈強な男子を全員殺害、女・子供を奴隷にし、
さらにアテネ人500人を現地に送り、
植民地支配を行ったといわれています。
それが重要な契機となってその後の精緻な哲学の歴史が始まったことを、
西川さんの本とあわせ、胆に銘じたいと思います。

 

・奥山へ又三郎の落ち葉かな  野衾

 

沈黙の果実

 

じぶんで為したことをふくめ、起こったこと、起きてしまったことを
ことばで表現することはむつかしく、
なかなかできる業ではないような気がします。
泣いている子供が、泣いたことの意味を知るのは、
忘れていなければの話ですが、
ひと月後、一年後、はたまた五年後、十年後かもしれせん。

 

他方、より高い年齢層の知識人、作家、芸術家、等々が、
五月を受けとめてそれが思想化され作品化されるには、
当然のことながら一定の時間を必要とするだろう。
本書の第四章で、
私が接した数人の知識人がいかに五月を受けとめたかについては
すでに述べた。
六八年五月との関連で常に問題とされるサルトル、フーコー、デリダ、
ドゥルーズ、ラカン、等々の知識人の六八年以後の変貌とその思想的豊穣さ
についてここで述べる余裕はないが、
それらは正しくミネルヴァの梟であって、
先行する五月の諸事件とともに記憶されるべきものであろう。
六八年六月以降の政府と警察、
あるいは右翼と左翼の双方による五月の忘却が意図的に進められるなかで、
最初の一〇年近くは五月は運動として存続し、
たとえ恐怖や嫌悪によってであろうと、
存在感をもって密かに記憶され想起され続けていたのではないかと思う。
五月が忘却の危機にさらされるのは、
まことに逆説的ではあるが、
左翼の成功によって、
そしてまたしても「選挙」によってであった。
(西川長夫[著]『[決定版]パリ五月革命 私論 転換点としての1968年』
平凡社ライブラリー、2018年、p.358)

 

社会的な歴史のことも、個人的なことも、
いわば顕現的秘匿でありまして、
意味をもとめて探りつつ、時を経て、やっとその相貌がみえてくる、
そんなところかなと思います。

 

・坂登りきり木の葉来るまた木の葉  野衾

 

沈黙について

 

西川長夫さんの『[決定版]パリ五月革命 私論』を読みながら、
国がちがい、時代も半世紀以上まえのことでありながら、
論じられていることは、
いまのわたしにも深くひびいてくる気がして、
きょうも引用したいと思います。
ところで、
先週二度、この本について触れた折、
書名を間違えました。
『[決定版]パリ五月革命 試論』としましたが、
正しくは『[決定版]パリ五月革命 私論 転換点としての1968年』です。
私論の「私」がとてもだいじなことでした。
お詫びして訂正いたします。
先週のも直しました。

 

私たちが陥りやすい第二の罠は、第一の場合とは逆に、
六八年における知識人の不在を強調し、
六八年の文化的思想的不毛性を指摘する、
これも当時のジャーナリズムの言説によく見られた傾向であった。
知識人の不在という現象はたしかに観察されたと思う。
それまでジャーナリズムを賑わせていた、レヴィ=ストロース、フーコー、
ラカン、アルチュセール、バルトといった名前が一時期、
新聞や雑誌から消えて、
この著名な知識人は彼らの意見がおそらく最も待たれているときに、
沈黙を守っているのはなぜだろう
という疑問を抱いたことは覚えているし、
またそのことについての嘲笑的な記事が出ていたこともたしかである。
だが彼らが同伴的な知識人のポーズをとらず、
沈黙を守ったことは(その理由はさまざまであろう)、
必ずしも六八年の思想的不毛性を意味しない。
むしろこの沈黙は多くの場合、
後になって分かることであるが、
六八年五月の衝撃の大きさと、
それをまっとうに受けとめた思想家たちの
その後のクリエイティヴな思考と活動に結びついていたと思う。
(西川長夫[著]『[決定版]パリ五月革命 私論 転換点としての1968年』
平凡社ライブラリー、2018年、pp.236-237)

 

なるほどと思います。
衝撃が大きすぎて、すぐにことばにできないことは、
おおくの人が体験するところ。
これは、たとえば、
泣いている子供に、泣いていないで理由を話しなさいと言うことの理不尽
とも関連している気がします。
泣いている理由をことばにできたら、
泣くことはないわけで。
たしか柳田さんの「涕泣史談」にあったんじゃないでしょうか。

 

・カラカラと硬き音立て枯葉かな  野衾

 

記憶に耳を澄ます

 

歩行が困難になった母に、離れていてなにができるかと考え、
毎週手紙を送ることにして二十か月、
きのう、今週分を送りました。
いまは実家の固定電話にも出られなくなりましたので、
このごろの感想は聞くことが
できなくなりましたけど、
ズリズリお尻で移動して電話に出ていたころ、
手紙に記したわたしや弟がまだ小さかった頃のエピソードが、
とても母を喜ばせることが、
母のことばから伝わってきました。
以来、
針の先ほどの小さな思い出でも、
さがして見つけて書くようにしています。
そんなことを続けているうちに、
はたと気が付いた。
ジャンルにかかわらず、
本を読むということ、さらには本の文字であれ、手紙の文字であれ、
それを静かに追うということは、
書き手の記憶に耳を澄ませ、
経験に与ることかな、
と。
けさは、旧約聖書の「アモス書」を読みました。
アモスさんは、
ユダのテコアで農牧を営んでいた預言者で、
経済の全盛期にあったB.C.750年ごろ、
ヤーウェの命令で北王国イスラエルに赴き活動した人とされています。
この文字群をゆっくり追っているうちに、
アモスさんの記憶に周波数を合わせるような具合になり、
そこに記されていることが、
まるで色を帯びて目の前に展開しはじめる、
そういうふうに立ち現れてきました。
本を読まない母が
子どものわたしに漱石さんの『こゝろ』を買って与えたことに始まり、
いまも身をもって、
本を読むこと、
文字を通して人さまの記憶に耳を澄ませ、
経験に与ることの意味を教えてくれているようです。

 

・ベランダの洗濯物や風邪ごもり  野衾

 

知識人のこと

 

西川長夫さんの『パリ五月革命 私論』を読んだきっかけは、
はっきりしていて、
中条省平さんが自著『人間とは何か 偏愛的フランス文学作家論』のなかで、
何度か五月革命に触れていたからです。
たとえば、13ページ。
「私は、世界中で若者が体制に反抗し、
フランスの五月革命を始めとする闘争をひき起こした〈1968年〉の世代
に属しています。
そして、当然のことのように、革命や反逆に憧れていました。
大学闘争に参加するには若すぎましたが、
中学や高校でその真似ごとをする年齢には達していました。」
この本を横において先日、
中条さんと対談しましたが、
ますます五月革命の射程を計りたくなり、
なにか、わたしの興味に応えてくれる本はないかと探していて
出会ったのが西川長夫さんの本でした。
いろいろおもしろかったのですが、
目をひいたのは、たとえば第四章「知識人の問題」。
これまで読んできた森有正さんとか加藤周一さんにも触れられており、
西川さんが書いておられる違和感みたいなものは、
わたしにも少なからずありましたから、
なおさら興味ぶかく読みました。

 

六八年と知識人の問題を考える時に陥りやすい三つの罠があると思う。
警戒すべきこと用心すべきことは三つに限らないが、
とりあえず三つのことを指摘しておきたい。
第一は、
学生運動にかんして強い影響力をもった特定の指導的な知識人や思想家の存在
を想定し、それを探り出し特定することによって何か問題が解決した
かのように思ってしまうこと。
この犯人探し的な趣向は、
六八年の政治社会評論やジャーナリズムの記事によく見られた傾向であった。
あの占拠中のソルボンヌの中庭に掲げられたマルクス、レーニン、
トロツキー、毛沢東、ゲバラ、等々の肖像を見れば、
そうした犯人探しの誘惑が起こるのは無理のない話かもしれない。
しかし前もって結論を言えば、
六八年の運動に、
それがマルクーゼであれアルチュセールであれあるいはサルトルであれ、
誰か一人のイデオローグの存在を想定することは現実にそぐわないし、
六八年革命の本質を歪め覆い隠すことになるだろう。
六八年の重要な特色の一つは、
そのようなイデオローグや大知識人の存在を否定あるいは拒否する
ところにあったのだから。
(西川長夫[著]『[決定版]パリ五月革命 私論 転換点としての1968年』
平凡社ライブラリー、2018年、p.232)

 

1968年といえば、わたしは11歳。中条さんより三つ下のわたしは、
「革命や反逆に憧れ」るようなことはありませんでした。
やさしい先生を慕う、
寂しがり屋のいなかの子供でしたし。
が、
その後、洟をすすりすすり、
じぶんの立っている足下をしらべる具合にして本を読んだり、
テレビを見たり、音楽を聴いたりしているうちに、
じぶんの根に流れ込んでいるものが気になるようにはなりました。
それがいまに続いています。
そういう個人的な興味関心からすると、
西川さんの本は、
「自分のなかに歴史をよむ」ことのおもしろさと深度を
あらためて教えてくれます。

 

・窓外を新しくして紅葉かな  野衾