記憶に耳を澄ます

 

歩行が困難になった母に、離れていてなにができるかと考え、
毎週手紙を送ることにして二十か月、
きのう、今週分を送りました。
いまは実家の固定電話にも出られなくなりましたので、
このごろの感想は聞くことが
できなくなりましたけど、
ズリズリお尻で移動して電話に出ていたころ、
手紙に記したわたしや弟がまだ小さかった頃のエピソードが、
とても母を喜ばせることが、
母のことばから伝わってきました。
以来、
針の先ほどの小さな思い出でも、
さがして見つけて書くようにしています。
そんなことを続けているうちに、
はたと気が付いた。
ジャンルにかかわらず、
本を読むということ、さらには本の文字であれ、手紙の文字であれ、
それを静かに追うということは、
書き手の記憶に耳を澄ませ、
経験に与ることかな、
と。
けさは、旧約聖書の「アモス書」を読みました。
アモスさんは、
ユダのテコアで農牧を営んでいた預言者で、
経済の全盛期にあったB.C.750年ごろ、
ヤーウェの命令で北王国イスラエルに赴き活動した人とされています。
この文字群をゆっくり追っているうちに、
アモスさんの記憶に周波数を合わせるような具合になり、
そこに記されていることが、
まるで色を帯びて目の前に展開しはじめる、
そういうふうに立ち現れてきました。
本を読まない母が
子どものわたしに漱石さんの『こゝろ』を買って与えたことに始まり、
いまも身をもって、
本を読むこと、
文字を通して人さまの記憶に耳を澄ませ、
経験に与ることの意味を教えてくれているようです。

 

・ベランダの洗濯物や風邪ごもり  野衾