自分のなかに歴史をよむ

 

ドイツ中世史がご専門だった阿部謹也先生の本を
あまり読まずにこれまで来てしまいましたが、
装丁家の毛利一枝さんと電話でいろいろ話をしていると、
たびたび阿部先生の名前がでてきて
意識するようになったことも、だいじなきっかけだったと思います。
毛利さんは阿部先生と面識があり、
先生の本を多く手掛けてこられました。
『自分のなかに歴史をよむ』
という本がありまして、とても共感しました。

 

施設のあった丘のはずれにきたない小屋がありました。
そこには靴直しのおじいさんが住んでいました。
偏屈な人という評判で、
カトリック信者なのにミサにもほとんど出席せず、
神父や修道女の間で評判がよくありませんでした。
でも私はなぜかこの人が好きで、
いつもひまになると遊びにいったのです。
口数の少ない人でしたが、
私には親切で、
私たちが飢えていることをよく知っていて、遊びにいくと必ず何か食べものを
くれたのです。
でもそこで食べるのが目的でいったのではなくて、
ただおじいさんの仕事をみているだけでとても楽しかったのです。
みすぼらしい小屋でおじいさんは
いつも腰かけたままで仕事をしていました。
このおじいさんが亡くなったのです。
葬儀には私も参列しましたが、
そのときの司祭のことばが私には不審に思えたのです。
司祭や修道女から疎んじられていたおじいさんでしたから、
ほめたたえることばがなくても不思議はありません
でしたが、
そのとき葬儀をとり行った司祭は、
「〇〇さんはこの世で必ずしも十分なカトリックの信者として暮らしたわけ
ではありません。ですから彼の魂は今は煉獄にいると思います……」
といったのです。
そのとき、
はっきりことばで意識したかどうかは別にして、
今そのときの私の感じをことばであらわせば、
「おじいさんが天国にいるのか煉獄にいるのかは、神様でない司祭に
どうしてわかるのか」ということでした。
(阿部謹也[著]『自分のなかに歴史をよむ』筑摩書房、1988年、pp.27-28)

 

阿部先生は少年のころ、カトリックの施設におられたそうです。
先生は学者ですから、
ここに記されていることは事実でしょうが、
靴直しのおじいさんは、
たとえば、トルストイの小説にでも登場するような人物に思えてきます。
こういうひとに魅かれていた阿部少年に共感をおぼえます。

 

・石塀をゆるりくるりの木の葉かな  野衾