革命と軍隊

 

時計の時間は、いまもむかしも変らないはずなのですが、
カタカナ用語がふえたせいか、
そんなことはかんけい無いのか、
どんどん日常のスピードが加速していくように感じるきょうこのごろ。
ほんと、
きのうのことが三日ぐらい前みたい。
なんとなく、そういう感覚で過ごしているので、
西川長夫さんの本は、
歴史から目を離さないことの意味をあらためて考えさせてくれます。

 

八九年七月一四日

革命記念日の七月一四日、午前中はシャン=ゼリゼ通りに出かけて、
軍隊のパレードを見る。
革命二〇〇年のこの年は、例年の二倍近い部隊が動員されたという。
パレードの上空を戦闘機の編隊が低空で飛び、
重戦車隊がシャン=ゼリゼの敷石をゆるがせて通る。
毎年、
他国を攻撃するための巨大な新兵器が誇示される。
私はこの種のパレードが嫌いだが、
戦車や巨大な兵器や軍服を着た人間に対する自分のほとんど生理的な嫌悪感
を確かめるために軍事パレードを見に行く。
大統領や国賓たちが席を占める特別席を除いて広いシャン=ゼリゼ通りの両側は
見物客の人垣が、十重二十重に押し寄せていて
なかなか前に出られないが、
何とか割り込んでほんの数分間だけ間近で眺めていた。
自由主義、社会主義を問わず
世界のほとんどすべての大国が、
その国の最も重要な祭日に人殺しの道具を誇示して祝うという
この近代国民国家の悪習は、
いったいいつになったらなくなるのだろうか。
だがこの軍隊の原型(国民軍)を最初に作りだしたのがフランス革命であった
ことは忘れてならないだろう。
(西川長夫[著]『[決定版]パリ五月革命 私論 転換点としての1968年』
平凡社ライブラリー、2018年、p.384)

 

ことしの前半から半ばにかけ、
トゥーキュディデースさんの『戦史』を久保正彰さんの訳で読みましたが、
それを重ねて考えると、
人間て、どういうんかなぁとつくづく考えてしまいます。
紀元前415年にアテネ人はミロス島を攻撃、
住民を無条件降伏させたうえ、屈強な男子を全員殺害、女・子供を奴隷にし、
さらにアテネ人500人を現地に送り、
植民地支配を行ったといわれています。
それが重要な契機となってその後の精緻な哲学の歴史が始まったことを、
西川さんの本とあわせ、胆に銘じたいと思います。

 

・奥山へ又三郎の落ち葉かな  野衾