文学史の基盤

 

文学史というジャンルが割と好きで、日本のことでいえば、
小西甚一さんの『日本文藝史』や
ドナルド・キーンさんの『日本文学史』をこれまで読んできました。
じぶんとしては、
古典とされているものをけっこう読んできたけれど、
とてもじゃないが、膨大な作品を読み切れるわけではなく、
またそのつもりも時間もありません。
でも、
信頼できる文学史のすぐれたものを読むと、
は~、そういう内容のものでしたか、
と、おしえてもらえる、
それも楽しくおしえてもらえる気がして、
つい手にとることになります。
いま電車では、
岩波文庫に入っている
津田左右吉さんの『文学に現はれたる我が国民思想の研究』
の七巻目を読んでいて、
「文学に現はれたる~」という観点が、
いまのわたしの興味にマッチします。
クルツィウスさんの主著を手にとったのも、
奥のところで、そのこころが働いていた気がします。

 

モンテスキューとディドロにかんする余論は,
ラテン中世にたいする関係がみられぬという点では,
本書の設問の範囲には入らない.
しかし本書の主題は
「ヨーロッパ文学と各時代におけるラテン的文学との関係」
という拡大された設問へと有機的にみちびく.
私は「ラテン的文学の諸時代」については別の場所で論じたいと思う.
私が
モンテスキューとディドロについての論文を本書の余論のなかに採用したのは,
近代の文学史がもし人文主義的な基盤を足下に失う
ならば,
それは誤謬におちいる危険のあることを
これらの論文が示しているからである.
(E.R.クルツィウス[著]南大路振一・岸本通夫・中村善也[共訳]
『ヨーロッパ文学とラテン中世』みすず書房、1971年、p.846)

 

モンテスキューさんもディドロさんも、いまとても関心があり、
クルツィウスさんがこのように考えていた
ことを知ってうれしくなりました。

 

・着ぶくれて長き階段下の影  野衾