どのジャンルかにかかわらず、欧米の本を読むときに、
いつも念頭におくのは、
その本の著者なり作者なりが、『聖書』をどのように読み、
どんなふうに感じ、どう思い、どうみているか
ということです。
こんかい、
『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』
『ウィルヘルム・マイステルの遍歴時代』
を読み、
ビルショフスキさんが書いた浩瀚なゲーテ伝と合わせることで、
ゲーテさんの聖書観が見えてきた気がします。
聖書は、それを理解すればするほどいよいよ美しくなる、
と私は確信している。
つまり、
われわれが一般的に解し、
特殊な場合にわれわれに当てはめる一語一語が、
ある状況にしたがい、
時と所の関係に応じて、一つの独自な、特殊な、
直接に個性的なつながりをもつに至ることを、洞察し直観すればするほど。
(ゲーテ[作]関泰佑[訳]
『ウィルヘルム・マイステルの遍歴時代(下)』
岩波文庫、1965年、p.275)
ここに記されていることは、ドイツのヘルンフート兄弟団が発行する
『DIE LOSUNGEN』の精神そのものであると思います。
『ヴィルヘルム・マイスター』には、
ヘルンフートも、
その設立者ツィンツェンドルフ伯の名も登場します。
『DIE LOSUNGEN』は1731年より
冊子のかたちで発行されていますから、
ゲーテさんが生まれる前。
ゲーテさん『DIE LOSUNGEN』を読んでいたかな?
そんなことを想像しながら、
けさも読みました。
日本語版は『日々の聖句』として1957年から出版されされています。
・ひと仕事終えて鍋焼きうどんかな 野衾