敵も味方も

 

敵の敵は味方、というようなことをどこかで読んだか聞いたか
して、
なるほどと思う節があります。
敵の反対語は味方。
たとえば、
わたしが敵対する人がほかのだれかと敵対している
とする。
そうするとわたしは、
敵対する人が敵対している(ややこしい)その人と味方になる、
そういうことでしょうか。
こういうことが往々にしてありそうなので、
いつのころからか、
味方をつくらないことをじぶん自身の教訓とするようになりました。
味方をつくるから敵ができてしまう。
しかし、ひとりぼっちが高じて、
こころが不安になると、
どうしても味方をつくりたくなる。
でもそこで踏んばって
味方をつくりたいこころをこころのままにしない。
味方をつくらなければ、敵、という観念も生じないのでは。
そんなふうに考えるようになりました。
友だちは味方とはちがいます。
ひととの関係で、敵、味方の尺度を用いないとなると、
なんだかよけいに寂しく、
日々、孤独になってゆくような気もしますが、
そうすると、
がぜん読む本の味わいがちがってくる
ようでもあります。
たとえば五百年前、千年前、それ以上むかしの本でも、
そこに記されていることばから、
その筆者のこころが
ゆっくりと静かにこちらに及んできて、
なるほどなぁ、
こういうことばを記すということは、
きっとこういうこころもちだったんだろう、
と感じ、しみじみ、
生きることのむつかしさと味わいを思わずにはいられません。

 

・綿入や読み終えし書をそつと閉づ  野衾