春風馥麗蘭

 

空海が編纂した『文鏡秘府論』のなかに、

 

秋露香佳菊  春風馥麗蘭

 

の詩が取り上げられています。

「秋露 佳菊(かきく)を香ぐはしくし

春風 麗蘭(れいらん)を馥(かを)らしむ」

 

具体的な文学論ながら、
論を展開するにあたって取り上げられる詩は、
しろうと目に、わかりやすいものもあり、
これはその一つ。
興膳宏さんの注によれば、
詩題撰者とも未詳とのこと。
それもまたよし。
みじかいものだし、語調もいいので、
春風にちなむ詩として覚えておきたいと思います。

 

・見晴るかす遠山桜歩歩の石  野衾

 

静かな健

 

諸橋さんの本には、
こんな愉快なエピソードも載っています。

 

学生自分に、私はある男と競争したことがあります。
一方の男は柔道の豪傑でありましたし、
私は体も弱かったから何もしなかった。
そこで、
その男がしきりに自慢して、
「おまえのようなヒョロヒョロなのは、なんにもならぬ」
と始終言われたから、
癪にさわって「それじゃひとつ、我慢する競争をしようじゃないか」
「何をするか」
「朝から晩まで本を見ていよう」
「ようし、そんなことで負けるものか」と、
その男はやったんですが、
三時間もやらないうちに彼は閉口してしまった。
私はもうそんなことにかまわないで、五時間ぐらいはやっておった。
つまり、
読書の持続性では私が勝ったのです。
それほど自慢にもならないのですが、とにかく、
ひとつのことをじっと考え、
ひとつのことをじっとやっていくということは、
決して弱い人間のできることではありません。
その健は、
やはり人生には必要だと思うのです。
これは、いわゆる「静かな健」であります。
(諸橋轍次『誠は天の道』麗澤大学出版会、2002年、pp.43-44)

 

・山低く野良廣袤(くわうばう)に種を蒔く  野衾

 

行不由徑

 

行(ゆ)くに徑(こみち)に由(よ)らず
これは、
漢学者・諸橋轍次さんの好きな言葉だそうですが、
このことばに盛られている考え方は、
生き方はもとより、
読書においても貫かれているようです。

 

すべて文献をもととする学問は国文学でも英文学でも同様だと思うが、
まず読む力をつけることが大道を歩むことである。
また同じ読むにしても、
普通に読まなければならぬ本をまず読むことが大切だ。
漢文学にはその普通に読まなければならぬ本が非常に多い。
四書五経をはじめ、
史記でも漢書でも唐詩選でも三体詩でもそれは決して一通りではない。
いたずらに人の知らぬような珍しいもののみをあさって
一時博識の誉を得ることはあっても、
それは決して将来の基礎を確保するゆえんではない。
だからまわり遠くとも踏むべき大道は踏んで歩けと、
これが私の学生に臨(ママ)んだ要求であった。
(諸橋轍次『誠は天の道』麗澤大学出版会、2002年、pp.252-253)

 

・壺焼を口窄(すぼ)ませて啜りけり  野衾

 

先人の知恵

 

嘘を言わないということは、
簡単なようでありますが、実はそうではない。
我われ凡人は、どうしてもある場合に嘘を言っている。
昔から
「私は嘘を言わぬ」という、そのことばほど大きな嘘はないと言われています。
それほど大半の人間は嘘を言っている。
中には悪意でない嘘もありますから、
必ずしも咎めるわけにもいかないけれども、
それほど嘘を言っている。
さて、
嘘を言ったとき、
いかにもそれがうまくいったと思うことはある。
その場合は事が通ずることはある。
けれども、
そのやり方には必ずや行き詰まりが生ずる。
にっちもさっちも身の動きのとれなくなることがある。
だから、
嘘を言わないというということが
人間の修養上いちばん大切な教えだと考えるのであります。
(諸橋轍次『誠は天の道』麗澤大学出版会、2002年、pp.21-22)

 

諸橋さんの『大漢和辞典』をひもとくことがこのごろ多くなっており、
あわせてこの本を読みはじめました。
講演をまとめたもので、
読みやすく分かりやすくはありますが、
言われている内容は、
時代を問わず、
人間として生きるうえでの根本を指し示しており、
実行するのは決してたやすいものではない。
諸橋さんが亡くなったのは1982年。
昭和57年。
享年99。
ごく最近までこの稀代の漢学者が日本にいて、
生きる道を指し示してくれたことを誇りに思います。
諸橋さんの座右の銘は、
「行不由徑」
行(ゆ)くに徑(こみち)に由(よ)らず
このことばも覚えていたいと思います。

 

・山笑ふ這ひつくばつて上るかな  野衾

 

恐るべき無智

 

いわゆる理論などというものは、
ソクラテスのいう最も大切なものを忘れているのに、
あらゆることを解決し得るかのように自負している点で、
無智の最大なるものと呼ばれるであろう。
最良の理論は、
われわれの無智についての、
自覚と反省から生まれて来るものでなければならない。
神のみが智なのであって、
人間に許されているのは、むしろ愛智なのである。
われわれは
自他の言行を吟味しながら、何かそれらを根本において支配しているものが、
いつわりの善を信ずる恐るべき無智ではないかと、
絶えず目をさましていなければならない。
ソクラテスの問答は、
このような目的のためになされるのであって、
単なる概念定義のためになされているのではない。
(田中美知太郎『ソクラテス』岩波書店、1957年、p.179)

 

テレビを点けても、パソコンを立ち上げても、
たいへんなことが起きていると知らされ、
落ち着いて考えようとするのですが、
こころは勝手にざわざわと騒ぎはじめます。

 

・岩ぐくる水に聴き入る春の山  野衾

 

記憶を正す

 

昨日、子ども時代の思い出として、
『黒馬物語』のことをここに書きましたが、
それを読んだ弟からメールが届き、
その内容に驚きました。
わたしはあの本を、
学校の図書室から借りだしたものとばかり思いこんでいましたが、
弟が言うには、
その記憶はどうやら間違っていて、
あれはずっと家にあったもの、
わたしは読まなかったけれど、
弟は何度か読んだというのです。
だれが買ってくれたかまでは覚えていないようでしたが、
実際に読んだというのですから、
信憑性が高い。
親が買ってくれたのか、
弟が言うように、
叔父か叔母が買ってくれたのか、
また、
わたしが買ってもらったのか、
さいしょから弟に与えられたものであったのか、
今となっては深い霧のなか。
しかし、
言い訳めきますが、
霧に包まれた景色がぼんやりと、
やさしくのちのちまで印象に残るように、
ハッキリしないところのある記憶は、
思い出すごとに
こちらを包んでくれるようにも思います。
にしても。
そうか。
あれは、借りた本ではなかったか。

 

・たづねきて風光る藪中の滝  野衾

 

黒馬物語

 

小学校の三年生か四年生の時でしょうか、
縁側の板張りのスペースに子供用の机を置いてもらい、
そこがわたしの勉強部屋、
ということになっていました。
田舎の農家のこととて
個人の部屋という意識がありませんでしたから、
机のあるそのスペースがじぶんだけの隠れ家(隠れることはできなかったけど)
みたいでうれしかったのを覚えています。
その頃、
学校の図書室から『黒馬物語』という本を借りてきました。
なぜその本を借りたのか、
その理由をまったく思い出せません。
いま思うに、
家で馬を飼っていたからかもしれません。
ともかく、
借りてきた本を何日か机の上に置きはしたものの、
中を見ずに返したような気がします。
あれから半世紀が過ぎて、
どういうわけか
そのことが気になりだして調べたところ、
イギリスの女性作家アンナ・シュウエルというひとが書いた小説で、
彼女は生涯これのみを書いて亡くなりました。
いくつか出ていた翻訳は、
どれも今は絶版ですが、
買おうと思えば安く手に入ります。
興味本位でいったんは買って読もうか
とも思いましたが、
けっきょくいまのところ買っていません。
なんとなく。
べつにいまさらという気がしないでもない。
読んでそれなりに面白いのかもしれないけれど、
ただ、なんとなく。
同じ頃、
ファーブルの『昆虫記』を借りだして、
こちらは読んだ記憶があります。
とにもかくにも、
けっして本が好きな子ではありませんでした。

 

・藪を漕ぎたづぬる滝や風光る  野衾