さまざまのこと 32

 

小学三年のときの担任は、川上景昭(かわかみ かげあき)先生。
背の高い先生で、教室はいつも明るく、
笑うときは大きく口をあき、
顔を真っ赤にし声を出して笑うのが常でした。
たまに授業から離れ、こわい話をしてくれることがあり、とてもこわかったけど、
おもしろかった。
子どもたちは、そのおはなしが好きで、
教科書をつかった勉強ではないからよけいに、
「先生、こわい話をしてよ」と、
ねだることも間々ありました。
夜な夜な墓場に向かう人がいて、その人のあとをこっそりつけていくと、
墓地にある目的の場所に着く寸前、
その人がいきなりうしろをふり向いてこちらを向く。
ギャ~~~~ッ!!!
みたいな。
ほんと、こわかった。こわすぎて、
みんなワイワイガヤガヤ。
そんな川上先生がだい好きでした。
先生の家は、いま潟上市になっていますが、
昭和町草生土(くそうど)にあり、
わたしの母の実家からそう遠くない場所にありましたから、
一度、
先生のご自宅を訪ねたことがありました。
このときは、弟をともなわず、
ひとりで行ったと記憶しています。
地名のとおり、草深いところだったような。
先生の家を訪ねるなど、はじめてのことでしたから、
緊張して何をしゃべったのか、
おぼえていません。
ただ、そのとき出してくださったメロンの味は忘れられません。
メロンを食べるのが初めてではなかった
と思いますけれど、
とても甘くて、同じメロンと思えませんでした。
『父のふるさと 秋田往来』を上梓した折に、
四十数年ぶりに先生のご自宅を訪問し、拙著を謹呈しました。
ほど経て、会社に手紙がとどきました。
川上先生からの手紙。
拙著を読んでくださった感想が記されていました。

 

・夏草や雨に打たるる古き址  野衾

 

さまざまのこと 31

 

わたしの叔母にM子(きのう書いたM子とは別の)がいました。
嫁いだ先が秋田県昭和町山田にありまして、
あとから知ったのですが、
そこは、
秋田の二宮尊徳といわれた農聖・石川理紀之助ゆかりの地でもあります。
理紀之助さんは、
弘化2年(1845年)2月25日、
秋田市金足小泉の農家、奈良周喜治の三男として生まれ、
21歳のとき、潟上市昭和町豊川山田の石川長十郎の養子となったことが、
ネットでしらべれば、すぐにでてきます。
わたしの祖父は理紀之助さんが好きで、
子どものわたしに話して聞かせることもありましたから、
尋ねたことはなかったけど、
むすめM子の結婚を考えるとき、
祖父のあたまに、結婚の相手が理紀之助さんゆかりの地の人か、
の認識が少なからずはたらいていたのではないか、
と想像します。
それはともかく、
子どものころ、弟といっしょに何度か、おばさんの家に遊びにいきました。
同じ歳ごろのいとこもいました。
バスで羽後飯塚駅まで行き、そこから汽車で大久保駅へ。
そこで降りて、
てくてく歩いていった記憶があります。
けっこうな距離でした。
おばさんの家に着き、いとことすぐ近くの高台で遊んだりもしましたが、
それよりなにより、
はっきりと記憶に残っているのは、
おばさんが作ってくれた赤茶色をしたご飯です。
鶏肉も入っていました。
なんと美味しかったことか。
はじめて口にする味。
こんな美味しいものが世の中にあるのかと驚きました。
赤茶色がケチャップの色、
なんてことは、当時思い及びもしません。
こころ根のやさしい人でしたが、
病気で割と早くに亡くなりました。

 

・紫陽花や古民家裏の狭き庭  野衾

 

さまざまのこと 30

 

わたしの父は、おんな五人、おとこ三人の八人きょうだいの長男。
八人のうち、
後に生まれた歳の若いほうはおんなで、
M子、Y子、T子。
三人とも嫁いで、いまはそれぞれ孫がいますが、
結婚する前は、わたしの実家にいっしょに暮らしていました。
三人とも仲がよかった。
結婚する前の三人を思い浮かべるとき、
忘れられない二つのことがあります。
ひとつは、ちょっと信じがたいことながら、
Y子とT子の前で、わたしが踊った(!)こと。二階の部屋でした。
ラジオからながれる音に合わせ、即興的な、
めちゃくちゃな踊り。
踊りというか、からだをくにゃくにゃさせたり、ぴょんぴょん跳ねたり、
畳の上を這いずりまわったり、でたらめ。
Y子もT子も腹を抱えて笑うので、調子にのって、
めちゃくちゃ度でたらめ度は
さらに増幅。
へとへとに疲れたのをおぼえています。
のちに、
竹内演劇研究所をへて劇団に入ったとき、踊りのレッスンで、
黒いタイツをはいてやるレッスンがありました。
いやでいやでたまりませんでしたが、
そのことから考えると、
子どものときのアレはいったいなんだったのかと思います。
三人の叔母にまつわるもう一つの思い出は、
なにの話題でそうなったのかは分かりませんけれど、
年上のM子vs.Y子+T子になったことがありました。
そのとき、
冗談半分だったと思いますが、
M子が立ち上がり、
両腕を肘で曲げ、ボクシングのファイティングポーズのような格好をし、
片脚をあげて、
「けんとこ、するが!?」と言いました。
けんとことは、拳闘コ。
秋田では、いろいろなものにコを付ける。
お椀はわんコ、茶碗はちゃわんコ、お茶はおぢゃッコ、飴は飴コ。
なので、拳闘コ。
歳をとってすっかり安定しているように見えても、
子どものときや若いときというのは、
いろいろさまざまな出来事があり、あとから思えばなんで?
ということが少なくないようです。
『赤毛のアン』シリーズを読み、
その感がいっそう深くなりました。

 

・予定無しただ冒険の夏に入る  野衾

 

さまざまのこと 29

 

祖母の兄の子、祖母にとっては甥にあたる人にKさんという建築士がいました。
土崎に住んでいましたが、
実家である祖母の兄の家に訪ねてきた折など、
わが家にも立ち寄ることがありました。
あるとき、Kさんは娘のM子さんを伴い、わが家を訪ねてきました。
対応したのが父だったか祖父だったか、
忘れてしまいましたが、
なにかおとなのうちあわせがあったのでしょう。
M子さんをつれ二階で遊んでいなさい、みたいなことを言われた。
M子さんはわたしよりひとつ上だったと思いますが、
ずいぶんおとなのふんいきがしたし、
なにより、
土崎は、わたしにとって都会でしたから、
都会からやって来た「おんなの人」だったわけです。
二階に上がるまでは問題なかったのですが、
部屋に入っても、
なにをどう話していいのかが分かりません。
クラスの女子となら話せても、
都会の「おんなの人」に話す話題など持ち合わせていませんでしたから。
なんとも間がもたないので、
「コーヒー、飲みますか?」と、かっこう付けた。
コーヒーといってもインスタントコーヒーなわけですが、
なにせ都会の「おんなの人」なので、
コーヒーとか、そういうの飲むんじゃないかと、考えたわけでした。
お湯を沸かし、
家にあったコーヒーカップ(あったのが不思議)と粉状のミルク
(クリープでなくたしかブライト)
を用意し、お盆を持って二階に上がりました。
コーヒーカップにコーヒーの粉を入れ、薬缶からお湯を注いだまではよかった。
スプーンでかき混ぜ、それからブライト。
ん!?
ん!?
と、溶けない。あせって、スプーンでかき混ぜるも、
ブライトがこまかく球になって、ぶつぶつと、
ビジュアルがへんな気持ち悪い飲み物になってしまった。
そうか。お湯がぬるかったのか。
時すでに遅し!
ああ、それからのことは記憶から飛んでしまっています。
きっと恥ずかしさで顔が真っ赤だったろうなぁ。
M子さん、あのときどうしたのかな?
気をつかって、すこしはカップに口をつけてくれたのか?
すっからかんと忘却のかなた。
忘却とは忘れ去ることなり。
ほんとにトホホな体験でした。
いまだから笑えるけど、身に付かぬ恰好は付けるものではないと、
つくづく思いましたよ。
M子さん、いまどうしてるかなぁ。

 

・訪ぬれば大地の微笑七変化  野衾

 

さまざまのこと 28

 

わたしの姓は三浦ですが、祖母の旧姓は草階(くさかい)といいました。
祖母の兄と弟も結婚して近所に住んでいて、
ふたりともわたしの祖父と仲がよかった。
よくわが家を訪ねてきては、お茶を飲んでいた。
兄弟にしてみれば、
すぐ近くに妹(姉)がいて、暮らしぶりが分かるし安心だったのではないかと思います。
祖母の兄の孫であるIくんとわたしは、
五つか六つ歳が離れていたと思いますが、
Iくんとよく遊びました。
遊んだ、というより、遊んでもらった、というべきかもしれません。
Iくんは、とてもおだやかな人で、
わたしはいつもIくんにくっついて歩き、
Iくんの家にもよく遊びに行きました。すぐ近くだったし。
Iくんが小学生で、
わたしが未就学の子どもだったころ、
学校がひけて、Iくんが帰ってくるのをこころ待ちにしていました。
帰ってきたらなにして遊ぼう。
それを考えること自体がたのしかった。
忘れられないのは、てきとうな長さの棒を二本さがし、
ズボンのベルトに差したこと。
剣士のつもりでした。
チャンバラごっこをするつもりだったのでしょうか。
その辺の記憶はあいまいなのに、
ズボンのベルトに棒二本を差したとき、
じぶんがいっぱしの剣士になったような高揚した気分に浸ったことは、
おぼえています。
じっさいにチャンバラごっこをしたかどうかは
おぼえていない。
記憶に弟がでてこないところからすると、
弟はそのころ、両親の出かせぎに伴われ家を離れていたのかもしれない。
とまれ、以来、Iくんとは何十年も会っていません。

 

・密やかに風に揺らるる四葩かな  野衾

 

さまざまのこと 27

 

子どものころの釣りといえば、
ふるさとの町の由来となった川でのチラランジ(=アブラハヤ)釣りでしたが、
もうすこし大きくなったころ、
短い期間でしたが、
フナ釣りにはまったことがありました。
いま八郎潟町ですが、
かつて一日市町(ひといちまち)という町がありまして、
1956年に、面潟村(おもがたむら)と合併して八郎潟町になったので、
わたしがものごころついた頃には、
一日市町はなかったのですが、
中世から受けつがれているらしい伝統的な「一日市盆踊り」に
その名をとどめているように、
子どもながら、
「そこ」は「ひといち」という土地なんだという認識がありました。
その一日市に、
釣り具をあつかう店がありまして、
ちなみに、
わたしの村(いまは町)には、そういう店はありませんでした。
釣り具だけでなくエサも売っており、
フナを釣るにはミミズでなく、ゴカイがエサでした。
そのことをだれに聞いたのか、
忘れました。
それはともかく、はじめてゴカイを目にしたときの衝撃は忘れられません。
岡本太郎さんではありませんが、なんだこれは!
いやいや、気持ち悪いのなんの。
びっくり。
ミミズに無数の柔らかい毛というか足が生えているような形状。
でもすぐに慣れて、店でゴカイを求め、
自転車で、
八郎潟へそそぐ近くの井川で針を落とした。
ゴカイの気持ち悪さは、
チラランジでないフナを釣りあげたい期待の大きさに、
すぐにしぼんでしまった。
ウキがクッ。と、
ググッ、ググッ、ググググッ。
引きの強さのすさまじいことすさまじいこと。
チラランジの比ではありません。
魚影が見えてきて、やがてバシャバシャバシャ!
あせったー!
すげー、すげー、
フナを釣った釣った。
一匹でなく、数匹釣りあげ、家に帰るときのあのときの気持ちといったら。

 

・漕ぎゆけば潟の上なる雲の峰  野衾