クマのプーさん

 

石井桃子さんが訳した「クマのプーさん」「プー横丁にたった家」が一冊になった本
を読みました。A5判サイズ、箱入りのりっぱな本です。
原作は、アラン・アレクサンダー・ミルンさん。
さし絵は、アーネスト・ハワード・シェパードさん。
ハードカバーの本のおもて見返しとうら見返しには、
物語の舞台になったところの地図が絵入りでえがかれていてたのしい。
この本、
ミルンさんの息子クリストファー・ロビンくんと
ぬいぐるみの動物たちが織りなす物語で、
クマのプーさんをはじめ、コブタ、ロバのイーヨー、トラのトラー、ウサギ、
カンガルーの親子カンガとルー、フクロウのフクロなどが登場します。
世界じゅうにファンがいて、
ディズニーのアニメにもなっていますが、
わたしはそちらを見たことがないし、本を読むのもこんかいが初めて。
たのしく読んだことはまちがいないのですが、
どうも、そのたのしさをうまくことばにすることができません。
この物語、
ちょっと調子が外れているような気がして、
それがさいごまでつづきました。
読み終えてふと浮かんだのは、ジャズのセロニアス・モンクさんです。
ジャズのノリみたいなのをじぶんなりにつかんだと思えたころ、
モンクさんが織りなす音に触れ、
なんだ、これはー!! ってなりました。そんな感じ。
モンクさんのジャズもそうですが、唯一無二、
とでも申しましょうか。
ちょっと調子が外れていると感じられるところをふくめ、
どこがどうだからということでもなく、
キャラクターたちがとても印象ぶかく、わすれられなくなりそう。

 

・切れてゐた蜥蜴尻尾を復したり  野衾

 

『川柳でんでん太鼓』6

 

川柳にかんする田辺さんの本がおもしろくて、ついつい回をかさねてきましたが、
そろそろ終りにしたいと思います。
本と旅にかんする川柳で、
これもまた、プッと笑いがこぼれ、読むほどに味わいが増すようです。

 

『番傘』 ’85・2。――ちなみに川柳関係の文章、エッセーにしろ句評にしろ、
テレビ番組に言及されている割合は、書物関係より多い気がする。
だからどうだというのではないが、本の句でおかしいのは、
〈好きな本ばかり並べてよく眠る〉(森淞鳳)

『川柳公論』10巻6号から。読みもしないのに、枕元へ、読みたい本を並べておく
だけで、よく眠れる。
〈本の栞しおり少し動かし旅終る〉(近江砂人)

これもゆったりとした詠みぶりで、大人らしいいい旅が思われる。旅といえば、

混浴と知って慌てたのが男   (林照子)

女のほうはどういうか。「えーやんか」「どーッちゅうこと、ない」
「しゃーないやないの」「はよ、入ろけー」「おもちろ」
(田辺聖子『川柳でんでん太鼓』講談社、1985年、p.317)

 

・始まりが喜びの極夏休み  野衾

 

『川柳でんでん太鼓』5

 

親しくしている写真家・橋本照嵩(はしもと しょうこう)さんは、
俳句もたしなまれるかたですが、橋本さんの代表句といっていいものに、
「アスファルトひたすら急ぐ毛虫かな」があります。
撮影用の重い機材をかついで移動しなければならない写真家の生活がかさなり、
味わいぶかい句になっています。
田辺さんの本を読んでいたら、川柳でも、
毛虫を詠んだものがありました。

 

国道を無事に渡って来た毛虫   (高橋千万子)

 

これ、好きなんですよ、私。
毛虫も胆きも太き、ノンキな奴だが、それをじーっとみている作者もノンキである。
女性はユーモアのある川柳をよう作らん、という男性もあるが、
それは認識不足。いま私の見るところ、ユーモア感覚は五分五分である。
もう少し先には女性のそれが男性を凌駕りょうがするかもしれない。
(田辺聖子『川柳でんでん太鼓』講談社、1985年、pp.287-288)

 

・仰ぎ見て右見て直進蜥蜴かな  野衾

 

『川柳でんでん太鼓』4

 

本を読んでいると、むつかしい熟語やいいまわしに遭遇し、
辞書で意味を調べたりして、はぁ、そういう意味ですか、ということで、
さっそく使いたくなります。
たとえば、閑話休題。なんだ? となって、しらべたら、「それはさておき」
とおなじ意味で、話があらぬ方向へいったときに、
本筋にもどることをさします。ていねいに、「閑話休題」のよこに、
「それはさておき」と振り仮名をふっているものもあります。
事程左様に、知るとすぐ使いたくなるのが、阿呆グセ。
ちなみにいまの「事程左様に」(ことほどさように)も、そのたぐい。
「それほど」「それくらい」を意味する副詞ですが、
わたしのような阿呆は、すぐに使いたくなります。

 

かしこい事をすぐに言いたくなる阿呆   (亀山恭太)

 

『番傘』 ’82・2。類句はありそうで私の目にはまだ入らない。実際、この句、
私のことを言われている感じがして、まいりました。
言いたくなるんですね、阿呆はムツカシイことを。私なんかの場合だと、
書きたくなるんですよ、ムツカシイ漢字や学問を、
右から左に書き写して人を驚かせたくなる。
この句、紙に書いて目の前に貼っておかなければならない。
阿呆の句になると川柳家は俄然ハッスルする。
〈あほになっときなはれという母があり〉(西尾栞しおり
(田辺聖子『川柳でんでん太鼓』講談社、1985年、p.285)

 

・あたらしき網戸越しなる景閑か  野衾

 

『川柳でんでん太鼓』3

 

子どものころ、父に連れられ『ガメラ対ギャオス』の特撮映画を観に行ったことが
あります。
あのときは、弟はいっしょじゃなかったように記憶していますが、
そこのところ、はっきりおぼえていません。
こんど会ったらきいてみよう。
とまれ、秋田市にある映画館で観たのですが、大入り満員で、
座っては見られず。館のうしろで立ち見。
背の低いわたしはなかなか見ることができず、父がしばらくわたしを持ち上げて
くれました。ひょっとしてあのとき父は、弟を肩車してたのかな。

 

見たいもの見られた父の肩車   (谷藤ひさし)

 

パレードが通る。子供は父の肩車でそれを見る。雲の峰、ビルの窓。山波。
父の肩車からは何でもよくみえる。
遠くまで見わたすことができる。
祭の神輿みこしがゆく。夜店がみえる。動物園の象がみえる。
父の肩は重戦車のようにたのもしいのである。
その肩車でみた世界はみな珍らしく楽しかった。
――いまもパレードのある日や遊園地などで父の肩車で、
子が得意そうに高々と背をもたげ、
父の太い首筋にしっかり小さい手をまわしている姿などは、
なつかしくも心あたたまる眺め。
(田辺聖子『川柳でんでん太鼓』講談社、1985年、pp.174-175)

 

・夏シヤツは赤と青との二着あり  野衾

 

『川柳でんでん太鼓』2

 

田辺聖子さんが紹介する川柳と、それにたいするコメントをあわせ読むと、
つくづく川柳っていいなぁと思います。含羞あり、照れ笑いあり、
つよがりの底のわらいと悲しみあり。ひとが好きだけど嫌い。嫌いだけど好き。
それを言ったらおしまいだよ、の手前、また横。

 

不細工な妻に子供はようなつき   (後藤梅志)

 

この作者は妻を嗤わらっているのではない、妻に対する溢れんばかりの愛を、
照れかくしでこういうているのである。
後藤氏の奥さんはお店をやっておられるそうで、
後藤氏がこの短冊を店へ掛けておいたところ、お客の一人が
「おばさんこんなこといわれて、よくだまっているね」
といったら奥さんは
「不細工でなくちゃ川柳にならないんだよ」とやり返して少しも苦にした様子がない、
やっぱり川柳家の妻だけのことはあると、
『秀句鑑賞と梅志句集』に後藤氏は書いていられる。

 

夫婦げんかしていたらしい屋台店   (高橋散二)

 

「一本つけて」とぬっとのぞいた屋台店、客は期待にみちて顔をつっこんだのに、
中はちょっと気まずい雰囲気、いらっしゃいというおばはんの声も冴えず、
おっさんもむっつり、客のいぬ間に揉めていたらしい。
夫婦で仕事すると、こういうときは逃げ場がなくて困ってしまう。
しかしまた一方、
お客との応酬やりとりのうちにいつとなくナアナアで、
けんかもおさまってしまう利点もある。
生活の中の、ちょっとしたほろ苦いなつかしみを活写するのも、川柳のうれしさ。
(田辺聖子『川柳でんでん太鼓』講談社、1985年、pp.142-143)

 

・滝落ちて人ひとヒトの小さきかな  野衾

 

『川柳でんでん太鼓』1

 

田辺聖子さんの『道頓堀の雨に別れて以来なり 川柳作家・岸本水府とその時代』
がおもしろかったので、
みちびかれるようにして『川柳でんでん太鼓』を。
田辺さんは実作をされなかったようですが、
田辺さんが紹介する川柳は、おなじ五・七・五の十七音ながら、
俳句とは別の味わいがあってたのしい。
たとえば、こんなの。

 

もう未練ないが糸屑とってやり   (麻生路郎)

 

女心のやさしさ、このほかに〈別離わかれの言葉に深酒しなさんな〉
というのもある。
別れる男に、「もう深酒やめなはれや」といい、未練はない男だが、
いつもの癖で目についた糸屑をとってやったりする。
まるでミヤコ蝶々のお芝居のようではないか。
蝶々さんは、
夫で相方あいかただった南都雄二なんとゆうじに愛人ができたので
その話し合いにミナミの小料理屋へおもむく。
蝶々さんは一人、「雄さん」のほうは愛人と二人連れでやってきて、
しかし蝶々さんはそこで修羅場を演じたりしない、
話を聞いて機嫌よう別れてやって小料理屋の支払いも自分ですました。
別々に車に乗って帰ったが、
渋滞で車が交叉点の信号で立ち往生、ふと見ると、
これも隣に停ってる車に雄さんと愛人が二人連れですまして乗ってるではないか、
こっちは一人、向うは二人、そやのにこっちが料理屋のおかね払はろて、
おもたら、急に腹立ってきて、……という蝶々さんの話、
あれもおかしかったな。
(田辺聖子『川柳でんでん太鼓』講談社、1985年、p.125)

 

・連山の下一面の青田かな  野衾