朝のウォーキング 2

 

散歩とウォーキングのちがいはなにか、よくわかりませんけれど、
ウォーキングのほうが歩くスピードがすこし速いのかな。
それと、コースを決めているので、散歩というよりウォーキングかと。
それはともかく。
うす暗いうちに歩きだしてだんだん明るくなりゆく日のなかを進んでいると、
犬をつれたおじさんやおばさんに出会います。
会えば、おはようございます。あちらも、おはようございます。
すれちがう場所も時間もだいたいおなじ。
どこに住んでいるのか、たがいに名前も知らないわけだけど、
あいさつは、やはり気持ちがいい。
ウォーキングの先の回れ右する場所にある公園のベンチには、
白髪の女性が二人並んですわっています。
公園の中央の方を向いてすわっていて、わたしたちが歩いている道からは、
背中と横顔しか見えませんから、
あいさつするのをちょっとためらいました。
でも、二人の並んでいる姿があんまりかわいかったので、つい、
おはようございます。
と、
二人ふり向いて、
おかえしのあいさつにしてはこちらが恐縮するぐらいていねいに、
あはようございます。うれしくなりました。
このごろ山歩きをしていませんが、山の景色、山から見下ろす景色もさることながら、
行きかう人と一期一会でこんにちは、おはようございます
とあいさつするのは、ひとの景色、
山歩きのひそかな楽しみでもあります。

 

・帰り来て風ひそかなる花野かな  野衾

 

朝のウォーキング 1

 

八月も終わろうとしているのに、連日、猛暑日がつづいています。
九月に入っても暑い日がつづくとの予報で、うんざりしてしまいますが、
会社の夏休み前の朝早く、
ゴミネットをセットするために外へ出てみたら、
ひんやりした風が首筋にあたり、とても気持ちがよかった。
いまは、早朝がいちばん気温が下がるのかな?
というわけで、
家人といっしょに、早朝ウォーキングをはじめることにしました。
5000歩弱。ウォーキングの締めは、
家の近くの公園でラジオ体操。
ラジオを持参しなくても、あたまのなかで、記憶のなかの音楽が鳴りますので、
それに合わせてイチニー、サンシ。ニーニー、サンシ。
あたらしい一日のはじまりです。

 

・目は遠く遊子誘はる秋の雲  野衾

 

恋愛とか

 

大学をでたあと、横須賀にある私立の高校に勤めました。
わたしは政治経済と現代社会の科目を担当しましたが、三年生相手のゼミがあり、
土曜日の3・4時限目にあたっていて、割と自由につかうことができました。
一冊の本をテキストに読書会をやったことがあります。
ある年は、恩師である宮田光雄先生の『きみたちと現代 生きる意味を求めて』
だったかな。
またある年は、三木清さんの『人生論ノート』。
『人生論ノート』は二年つづけたかもしれません。
「〇〇について」という題で、みじかめのエッセイがつづられていた。
さて、あの本のなかで、
恋愛についてはどんなふうにかかれていたのかなと思い、しらべてみたら、
ありませんでした。
恋愛は、題目としてあがっていません。
そうか。そうだったか。
森信三さんの『修身教授録』にはあったかな…?
でも、本がいま手元にないし、いっか。
さて、恋愛について、本をたよりに書こうとしたらどうやら見当はずれだったようです。
となると、つたないじぶんの体験から、ということになりますが、
それをことばにするにはどうも無理がある。
なので、
上の本とはべつの本に依拠しつつ、恋愛にもいえるかな、
と思える文を引用します。

 

はじめてのことをしてみよう。

行ったことのない場所に行ってみる。
髪の毛に、かけたことがないほどのちりちりパーマをかけてみる。
食べたことのない異国のくだものを食べてみる。
つくったことのない料理をしてみる。
ずっと話したかった人に、話しかけてみる。

あまりにも、ちいさなスケールだけど、はじめてのことにむかうとき、
こわさといっしょに、心があたらしくひかるような気がする。
生きていることが、なにかうれしくなるのは、どうしてだろう。
(おーなり由子[著]『ひらがな暦 三六六日の絵ことば歳時記』2006年、新潮社、p.274)

 

おーなり由子さんのこの本、まいにち1ページずつ読んで二年目に入りました。
愛読書です。引用したのは、
8月26日「冒険の日」と題された文章です。恋愛も、
この文章にピッタリあてはまるような。

 

・木々の間の光揺れくる秋高し  野衾

 

はたらくについて 2

 

はたらく、ってなんだ? ということですが、
本で読んだり、ひとの話を聴いたりし、そうかぁ、と納得することもあれば、
そうかなぁ、と、さらに疑問符がかさなることも。
いまのところ、
わたしが「これだ!」と腑に落ちたのは、
鈴木重雄さんという方の『幽顯哲学』という本にある説明です。
1940年刊行の本。
これについては、
すでに昨年の2月14日にこのブログにとり上げましたので、
くりかえしは避けますが、
要点は、
「はたらく」の語源は初田開く(はつたあらく)であろうということでした。
開くと書いて「あらく」と読むことがあるかと疑問に思い、
『広辞苑』をしらべてみたら、
ありました。
いわく、
「(関東・東北地方で)荒地。また、新しく開いた畑や山畑。
動詞として、開墾する意にも用いる」と。
わたしが農家出身ということもありまして、荒地を開墾して畑にしたり、
田んぼにしたりすることが「はたらく」のもともとの意味だよ、
という説明はしっくり来ます。

 

・ありがたく掌に受く石清水  野衾

 

はたらくについて 1

 

小学校低学年のときでしたが、学校でたまに、テレビを観た記憶があります。
「はたらくおじさん」というタイトルだったとおもいます。
テレビを観るというのは、べんきょうでなく、息抜き、たのしいあそび、
みたいなものという感覚がありましたから、
学校でテレビを観るというそのこと自体が新鮮でした。
ネットでしらべてみたら、
NHK教育テレビで1961年から放送された小学2年生向けの社会科番組とありますから、
記憶と合っていそうです。
ちょうど2年生だったのかなぁ。
2年生のときの担任といえば、斎藤先生なわけだけど。
ともかく。
子どものころ、じぶんがやがておとなになって、
はたらいておカネを得るようになるときが、ほんとうにくるのかなぁ、
と、空をゆく雲をながめるような具合に呆けていた。
はたらく、ってなんだ?

 

・外便所板の節目の残暑かな  野衾

 

中井久夫さん 9

 

どの本でも、読みながらおもしろいとおもったところに付箋を立てます。
本を読み終え、付箋を立てた箇所をあらためて読みなおしたとき、
その文についてもういちど考えてみたいとおもえば、
このブログに引用し、拙文を添えています。

 

私は宗教的な人間からほど遠い。そのためであろう、
宗教が精神病者を救いうるかという表題からは、次第に離れてしまったように見える。
しかし、
「宗教は精神病者を救いうるか」という一般的な問いを先に立てて、
いかようにせよ答えを出してしまうと、
救える者も救えないという機微はないだろうか。
「精神科医は精神病者を救いうるか」
という問いには一般的には「是」も「非」もない。
これは自明であろう。
精神科医は「治療者」という言葉で呼ばれるけれども、
実は、一種の触媒に過ぎず、
よい反応もよくない反応もその上で起こるであろうが、
触媒自体は、反応について多くを知ることはできず、また、
その必要もないどころか、触媒の分際で周囲のすべてを知ろうとすれば、
反応自体が失われるだろう。
つまり「いまここ」で起こっている、より大きな事態、より大きな文脈の中の一部
である。
宗教の場合はいかがであろうか。精神医学は精神科医なしにありえないが、
宗教は、生身の宗教者なしに(必ずしも僧ということではないが)
ありうるのだろうか。
精神医学の本を読んで治癒する人はあっても、軽症の人であろう。
少なくとも精神科医が呼ばれるほどの患者の場合、
いかに不完全な存在であっても生身の精神科医抜きでは治療はありえない。
宗教の場合はいかがであろうか。
(中井久夫『中井久夫コレクション 世に棲む患者』ちくま学芸文庫、
2011年、pp.324-325)

 

中井久夫さんの『世に棲む患者』を読み、いろいろ考えさせられました。
ひとのこころというのか、精神というのか、
こういうありようをとるのかとの思いをつよく持ちしました。

 

・笑み合えば同級会の夏休み  野衾

 

中井久夫さん 8

 

中井久夫さんの一冊の本から多く引用してきましたが、
あとすこし続けたいとおもいます。
「世に棲む患者」という書名に魅力を感じていることが大きいのかもしれません。

 

「妄想」それ自体が、実際は、きわめて定義しにくい。いわく、「訂正不能性」
「のりこえ不能(他の考え方がありうるという視点変換ができないこと)」、
「確率の無視(確率のきわめて少ないことをもっともありうることと考えて
恐怖する)」など。
西欧の精神医学者は、妄想の定義に苦しむ。精神病は「理性の病い」である
という固定観念を脱することが難しいからであろう。
それでも、
カトリック作家のG・K・チェスタートンは、
「狂気の人は理性が狂っているのではない。理性以外のすべてが狂っているのである」
と言っている。
「すべて」かどうかは問題であるが、
この発言のほうが的を射ているように私は思う。
(中井久夫『中井久夫コレクション 世に棲む患者』ちくま学芸文庫、
2011年、p.316)

 

(他の考え方がありうるという視点変換ができないこと)や
(確率のきわめて少ないことをもっともありうることと考えて恐怖する)ことは、
多少のちがいはあっても、だれもが持っている資質のような気もします。
「世に棲む患者」というのは、
こういうことも指しているとおもいます。

 

・宿題を七日で済ます夏休み  野衾