さまざまのこと 26

 

秋田県五城目町は、わがふるさと井川町のとなりに位置しています。
秋田市までは汽車を使わなければ行けませんでしたけれど、
秋田市に行かなくても、
だいたいの用事は、五城目町で済ますことができました。
五松堂という本屋があって、自転車に乗って、
そこを訪ねたこともあります。
一度は『自由自在』という参考書を買うために。
ぶ厚い参考書。が、
それで勉強した記憶はあまりありません。
母がわたしに買って与えた漱石さんの『こゝろ』も、五松堂で求めたのではないか
と勝手に想像しています。
五城目町では、有名な朝市があります。
1495年創始とされており、ことしで530年ということになりますから、
おどろきです。
子どものころ何度かおとずれ、なにを買わなくても、
そのたびに、
わくわくどきどきしたものでした。
見たり買ったりするだけでなく、
山菜採り名人の祖母は、採った山菜を朝市に持っていき、販売していたことも
あったはず。ネットで調べたら、
いまも朝市はつづいていて、五城目町に住む人は110円、
町外の人なら210円払えば出店できるそう。
祖母が山菜を売りに出していた当時は、どうだったのでしょうか。
そこまで祖母に聞いたことはありませんでした。
山菜を売ってどれだけ稼いだのか、
分かりませんけれど、
帰りにはかならず、大判焼きやシンプルな「おやき」を買ってきてくれた。
なかに入っているあんこの、なんとおいしかったこと。
山菜を売る祖母の姿をけっきょく見ずじまいになってしまいましたが、
ちいさい体をまるめて、
じぶんの前に採ってきた山菜をならべ、
きときと目を輝かせている祖母が目に見えるようです。
五城目町にはまた、
プラモデルを売っている店もあり、そこもたびたびおとずれた。
自転車でも行けるとなりの町なのに、
子どものわたしにとって、
たのしいわくわくがいっぱい詰まっている町でした。

 

・足下に小さき花火や紅の花  野衾

 

さまざまのこと 25

 

これもそうとうふるい記憶。まだ小学校に上がっていないころのはなし。
祖母につれられ、バスで五城目町に行きました。
井川町(当時はまだ村)の北側・新間(あらま)を過ぎると家並みがとぎれ、
しばらく行くと五城目町に入ります。
右手に食べものの店があり、左手に畳店、道はみじかく下り坂。
車窓からの風景はいつもたのしい。
ほどなく、橋の手前の停留所でバスを降ります。
そこにも小さな店。
バスが発車するのを待ち、祖母の後をついて道の反対側にわたります。
そこに目的の家がありました。
わたしの家のような農家ではありません。
それほど大きな家ではありませんでしたが、家のたたずまい、家具、
対応してくれた女性、家のなかの空気まで、
子どもごころに、
どことなく、なんとなく、裕福な家、という感じがしました。
女性の白髪は、
すこしむらさきがかっていた気がします。
祖母の血筋の女性が嫁いだ先だったのかもしれない。
祖母としたしく話をしていました。
わたしはひとことも発しません。
白髪の女性からなにか声をかけられたかもしれないけれど、なにを言ったか、
どう答えたか、おぼえていません。
ただ、帰りがけにおカネをもらったと思います。
きれいな家を出てバスを待つあいだ、
橋の近くまで歩き、
滔々とながれる川の景色をしばらく見ていた。
ありふれていた気もするその景色を、
おとなになってから一度ならず夢に見たことがあります。
大水が氾濫し、
川幅がいつもの二倍から三倍ほどに広がっている。
ずっと後になって、その家のことを父にたずねたことがありました。
材木かんけいの仕事で財を成した、
というようなことだったと思います。
ふるいふるい記憶です。

 

・ベランダのシーツ反転夏の風  野衾

 

さまざまのこと 24

 

山菜の季節になると、かならずといっていいほど思いだすエピソードがあります。
それは、わたしが直接体験したことではなく、
祖母からきいた話。
わたしの父がまだ少年で、祖母も若く、
いっしょに山菜を採りに山に行ったときのこと。
東北地方の山菜で「あいこ」があります。ミヤマイラクサのことで、
わたしの地域では「あいのこ」
と呼んでいました。
平地に生えていることもありますが、きつめの斜面に生えていることもあります。
祖母は山が好きで山菜採りの名人と呼ばれていました。
なので、
山のどこに行けば、ほしい山菜が手に入るかを熟知していた。
他人に知られていない
なじみのある場所へ行き採っていたとき、
上方はるかに、青々としたりっぱなあいのこを発見。
山の人なら、山菜をよく知っている人なら、
遠目で見ても、
それがどのランクの山菜なのかが分かります。
祖母にはそれが分かった。しかし、
山歩きの得意な祖母でも、
その斜面を登ることはためらわれた。
首をななめにして見上げる祖母の視線の先にあるあいのこを確認した父は、
やにわに斜面を登りはじめた。
「やめれ、やめれ! あぶねがら」と祖母。
危ないからやめなさい、と注意されても、やめるような父ではない。
「おいだきゃ、んが!」
おれをだれだと思っているんだ。こんな斜面、屁でもないさ、
というような啖呵を吐いてどんどん登っていった。
と、
目指すあいのこが生えている場所に至る直前、
ずるずる、ごろごろごろ、どさり、と土まみれになって落ちた。
「ほら、みれ。んだがら、言ったべ」
若い父を祖母は、叱ったか、笑ったか。
おそらく大口を開いて笑ったのだと思います。
祖母からなんど聞かされたか分かりません。
そのたびに、父さんらしいなぁ、
と思ったものです。
「三つ子の魂百まで」のことわざどおり、
父の「おいだきゃ、んが!」精神は、
その後も父にながく棲みつくことになりました。

 

・強風に逆らひて行く夏帽子  野衾

 

さまざまのこと 23

 

わたしの「はじめてのおつかい」がいつだったのか分かりませんけれど、
子どものころ、家の者の指示で、
つかいに出されることが間々ありました。
たとえば、
米を持参し下の町内の川べりにある家を訪ね、
麹(こうじ)と交換してくる、などの用事を言いつかるとか。
米でなくおカネを持っていったのか、
ちょっとあいまい。
いちばん古い「おつかい」かどうかはともかく、
そうとう古く、したがって、
ごく小さい子どものころの記憶としていまもおぼえていることがあり、
ではありますが、
なんの用事を頼まれたのかはおぼえていません。
ふるさとの、
わたしの地域の墓地はふたつあり、
祖父母と先日他界した母のお骨は新しい墓地に納めてあります。
それとは別に、もう一か所、
すこしはなれたところの小高い丘の上に
古くからある墓地があり、
子どものころ、
祖父母もまだ元気にしていましたから、
お盆になると、ゆかりの人の墓へお参りに行ったものです。
その丘の下に、大きな古い家があり、
そこへ、なにかの用事を言いつかり、訪ねていったことがありました。
親戚だった可能性もあります。分かりません。
ともかく、
とても大きな家だったこと、
重い扉を開けると土間が広かったこと、
そこが暗かったこと、
歳のいった白髪の女性が対応してくれたこと、
そんなことをぼんやりおぼえていて、
その後なんどかその光景を夢に見るようになりました。
とくに怖い夢、というわけではありません。
ただ、
その夢のあとにつづく夢が、怖いものに移っていったことはあります。
ヘビが出てきたり、ヘビが多くかんけいしていたり。
あの家がいまあるのかないのか、
いや、そもそも、そこに家などなかったのか、
わたしの記憶が、どこまでが事実で、
どこからが夢のはじまりなのか、
いまとなっては区別することができません。

 

・白服の店員駅横のパン屋  野衾

 

さまざまのこと 22

 

不安と期待でドキドキしながら上がった小学校でしたが、
伊藤陽子先生という、いつも笑顔のすてきな担任の先生のおかげで、
小学校はもとより、
その後ながくつづくことになる学校生活は、
あかるい日差しのもとで幕を開けることになりました。
一年生のとき、
同じクラスにKくんという子がいました。
背の高さが同じぐらいだったためか、
体育の時間、ふたりが組になってする体操のときに、
Kくんと組むことになりました。
両手を相手の肩にかけ座ってする運動でしたが、
しばらくすると、ピピーッとホイッスルが鳴ったので、
動きを止め先生のほうを見やりました。
と、
先生に指示され、わたしとKくんが前にだされ、運動の見本としてふたたび組み、
みんなの前でおこないました。
恥ずかしかったけれど、ちょっと誇らしかった。
Kくんと組んでの運動は、
わたしが力を入れる場面ではKくんが力を抜き、
Kくんが押してくるときにはわたしが力をゆるめ、
やっているうちにコツがつかめたのか、
ふたりが一心同体となるような具合で、
なんとも気持ちよかったことをおぼえています。
そんなこともきっかけだったのでしょう、
Kくんと仲よくなり、
その後、Kくんの家に遊びに行ったこともあります。
Kくんの家は、
学校を基点にしてみたとき、
わたしの家とは反対方向でした。
なので、平日ではなく、
休みの日に遊びに行きました。
近くにあった広場は、山を切り崩したような印象で、
赤土の崖が切り立っていたのをおぼえています。
Kくんのおかあさんが作ってくれたお菓子をふたりで食べました。
おなじ町(当時はまだ村)なのに、
都会に来た気がしたものです。
Kくんはのちに野球部のピッチャーとして活躍することになります。

 

・はみ出して首もて余す青大将  野衾

 

さまざまのこと 21

 

小学校のあった場所から左と右へ入る両方の小道についての思い出を記しているうちに、
それから二十年ほどたったある日のこと、
横浜の友人宅で聞いたアメリカのある詩人の詩を思い出しました。
彼女が語るひとことひとことが、
つらい時期にあったわたしのこころに深くしみ入り、
詩人の名をおぼえ、行きつけの書店におもむき、詩集を求めました。

 

黄色に染まった森のなかで、道が二手ふたてに分かれていた。
旅人ひとりの身でありながら、両方の道を進むわけには
いかないので、私は長く立ち止まって、
目の届く限り見つめていた――片方の道が向こうで
折れ曲がり、下生したばえの下に消えていくのを。

 

それから別の道を進んだ、前のと同じくらい平坦だし、
ことによれば、より選ばれる資格があると思って――
その道は草が深く、もっと踏み均ならす必要があったから。
だがそれを言うなら、実のところ、どちらの道も
ほぼ同じ程度に踏み均されていたのだが。

 

ロバート・フロストさんの詩「選ばなかった道」の第一連と第二連。
詩は第四連まであります。
引用は、
わたしがかつて買った詩集からではなく、
川本皓嗣(かわもとこうじ)さん編の岩波文庫からのもの。
選ばなかった道があれば、選んだ道があるわけですが、
選んだ道を行くと、
その先にはまた二手に分かれた道があり、
そこでも、どちらかの道を選びすすむことになります。
さらにすすむと道はまた二手に分かれ……
そうして眩暈がするぐらい、
いまのここに至ることになります。

 

・とりとめのない心かや夏の蝶  野衾

 

さまざまのこと 20

 

道の印象はいろいろ。薄暮のなかへ引き込まれるようにつづく道があるかと思えば、
カンカン照りの太陽の下のまっすぐの道もあります。
かよいなれた小学校のあった葹田(なもみだ)から左へ折れる道が
記憶のなかで月明りに照らされているとすれば、
右へ折れる道は館岡(たておか)へと至る明るい道。印象のはなしです。
小学校二年生、三年生だったかな、
年については、正確にはおぼえていません。
ただ、ことがらとしては、はっきりとおぼえています。
社会科の授業の一環として、学校から家までの地図を描いてみよう、ということで、
わたしの班のだれかが、それなら館岡の山に登れば、
学校とその周辺が一望できるから、そこへ行ってみよう、
と言いました。
野外活動がゆるされる授業でした。
学校を出て館岡の目的地までは二十分ほどかかったでしょうか。
山というか丘の上からは、
学校周辺がパノラマのように見わたせます。
学校を起点とし、
わたしの家のある方角へたどると校門を出てすぐにお店があり、
そのとなりのとなりがクラスのHさんの家、
そこで家並みがとぎれ、道は寺沢へと向かいます。
大きな屋根のある家の前を井川が流れ、川べりには、丹波栗の大木。
その木がはっきり見えたわけではありませんが、
あることはある。
寺沢にはまたクラスの友だちYくんの家もあります。
ふだんかよっている道を、
全体ではないけれど、一望できたことに感動を覚えました。
そこまでがくっきりしている記憶で、
そこで見た光景をその場で地図に落とし込んだのか、
ササっとメモ程度に描いて、学校へ戻ってから清書したのか、
そこのところはもはや
霧がかかって定かではありません。

 

・夏近し土器と鏃の森へ行く  野衾