母がくれた本のある世界

 

本年1月22日に母が他界した。享年89。思い出はいろいろあるけれど、
わたしの一生を決めたともいっても過言でない思い出がある。
そのことがなければ、
教師になることも、出版社に勤めることも、
ましてみずから出版社を立ち上げることもなかったと思う。わたしは小学校時代、
教科書以外の本を読んだことがない。
例外的に図書室から借りだして読んだのは、子供向けの
『ファーブル昆虫記』であった。
本を読まない息子に不安を感じたのか、
母は、わたしが小学4年のときに夏目漱石の『こころ』を買ってきてくれた。
すぐにページを開いてみたものの、
5ページと読み進めることができなかった。
捨てはしなかったけれど、そのまま、部屋の隅に放っておいた。
高校に入学したとき、母からもらった『こころ』を思い出した。ところが、
もらったものは上製の重い本だったので、
秋田駅の近くの本屋で文庫本の『こころ』を新たに買い求めた。読んで驚いた。
友情、恋、裏切り、死…。そのとき感じたのは
「人間というのは、なんて気持ちの悪い生き物だろう」
というものだった。それは、
わたし自身のことをふくめ、その後ずっとつづき、現在に至っている。
母がなぜ、漱石の『こころ』を買ってわたしに与えたのか、
のちに尋ねたことがある。母は、
漱石も『こころ』も知らなかったし、
わたしに本を買い与えたことすら忘れてしまっていた。わたしは勝手に、
本を読まない息子を危惧し、本屋を訪ね、
店の主人に聞くかして買ってきたのだろうと想像していた。
ほかの可能性があることなど、当時すこしも考えつかなかった。

 

母の葬儀は、母の親族と父の親族にかぎったものだったが、
母の妹のKさんも参列した。葬儀の後の会食のとき、思わぬことを聞かされた。
兄弟姉妹6人のなかで、母がいちばん勉強好きで、
よく勉強していたというのだ。
親も、勉強好きな母に、勉強なんかするよりも仕事をしなさいとは言わなかった
らしく、Kさんは、それが妬ましかったのだとか。
Kさんの話のなかには、結婚する前の少女時代の母が息づいていた。
短距離走やバスケットボールなどのスポーツが好きで、
得意でもあったとは母から聞いていたけれど、勉強好きで、
本も読んでいたというのは初耳だった。
ものごころついてから、他界するまで持っていた母のイメージは、
大きく変更を迫られることになった。
母は、昭和10年、1935年生まれである。『こころ』はともかく、小学校、
あるいは中学校の国語の教科書に、
夏目漱石の作品が取り上げられていた可能性はある。漱石の名前ぐらいは、
少女の記憶のどこかに刷り込まれたかもしれない。
わたしが母に尋ねた時点で、その淡い記憶も消去されていたのだろう。

 

昨年12月31日、入院先に面会に訪れたとき、意識もうろうとなりながら、
母は際限なく「ありがとな」を繰り返した。
ありがとな。ありがとな。ありがとな。……。なにに対して、だれに対して。
ただただ「ありがとな」。
明けて1月3日。面会に訪れると、母はすこし元気を取り戻し、
意識も割にはっきりしているように見えた。
こんどはさかんに「よかった」を繰り返した。よかった。よかった。よかった。
……。

 

母の葬儀を終え、横浜に戻ってから、すがるような気持ちで、
わたしは中村元さんが訳された『ブッダ最後の旅 大パリニッバーナ経』を読んだ。
母の死を、なんとか自分の胸に落ち着かせたかったのだと思う。
『ブッダ最後の旅 大パリニッバーナ経』はパーリ語から訳されたものだが、
同じく中村さんの『ブッダ入門』には、
入滅前のブッダのことばとしてサンスクリット語からのものが紹介されていた。
「この世は美しい。人の命は甘美なものだ」と。
母の呪文のような、また祈りのような「ありがとな」と「よかった」を
ブッダの言葉に引き付けて解釈したい。
というよりも、
「そういう気持ちだったんでしょ、かあさん」と祈るような気持で母の写真を
見つめている。

 

・いづこより木槌の音す五月かな  野衾