さまざまのこと 9

 

栗拾いも忘れることができません。これもまた、いつものことながら、
だいたい弟と連れ立って。
わたしの家から井内へ下り、集落を過ぎて大台へ向かって歩くと、
わたしの祖父の本家にあたる家の田んぼがありました。
子どものころ、
本家の田仕事を手伝いにわたしの家族も出かけました。
田んぼの一角に、
こんもり小高い丘というか、森があり、
そこに大きな栗の木がありました。
横に小屋があったような気もしますが、それは、わたしの記憶がつくり上げた
架空の小屋かもしれません。
小屋はともかく、栗の木はたしかにそこにあって、
わたしと弟は、そこでよく栗拾いをしました。
かなり大量に拾えたはずです。
毬(いが)がひらいて、中の茶色く色づいた栗を拾うのですが、
ズボンのポケットがだんだん膨らんでいきます。
ズボンのポケットでなく、
さいしょから、
拾った栗を容れるための袋を用意していたかもしれません。
とにかく、よーく採れました。
なかにはまだ毬がひらいていないものもあり、
そうすると、もし、鎌を持っていれば、
両足の靴の間に毬をはさみ、
鎌のミネで地面につよく押し付けるようにすると、毬がパカッとひらく。
まだ白っぽい栗もある。
その光るようなみずみずしさ!
鎌を持っていないときのほうが多かったけれど、
鎌の代わりに、適当な棒っ切れだったり、
道具を使わずに、
靴のへりを上手につかってひらくこともできた。
ググッ、ググッ。
ちょっとしたところに、
いろんなコツがありました。

弊社は、明日(土)から5月6日(火)までGW休業とさせていただきます。
5月7日(水)より通常営業となります。
よろしくお願い申し上げます。

 

・連山は刷毛ひと撫での朧かな  野衾

 

さまざまのこと 8

 

小学四年の年は、いま振り返れば、いろいろな意味で転機の年だったのかなぁ
という気がします。
本を読まないわたしに母が夏目漱石さんの『こころ』を買ってきた
のが小学四年のとき。
理科教室の黒板のうえに掲げられた「真理探究」の揮毫を見、
意味も分からないのに鼻息荒く、
そうだ人生これでいこう、と、りきんだのも小学四年。
理科教室といえば、
はじめてじぶんで料理して食べたのも小学四年。
家庭科の実習という名目で、班ごとに何か料理を作って食べるというものでした。
わたしの班では、ほうれん草を油で炒めて塩をふったソテー。
かんたんだけどおいしかった。
だいたいわたしは、子どものころ、
台所に立ったことがほとんどありません。
料理をつくるとか、母や祖母が料理するのを手伝うとか、
したことがありません。
せいぜい、つくられたものを飯台に運ぶぐらい。
なので、
理科教室でつくって食べたほうれん草のソテーが忘れられない。
それは、はっきりとおぼえているのですが、
あのとき、みそ汁もつくったような気もするし、
そうじゃない気もします。
ご飯は、家から持ってきたのだったかな、
その辺が、どうもぼんやりしていてつかめない。
まさか、炒めたほうれん草だけ食べたわけじゃないと思うけど。

 

・車窓より眺めせし間の桜かな  野衾

 

さまざまのこと 7

 

1957年生まれのわたしは、給食というものを体験していません。教育実習で母校の
中学校を訪れたときに、遅ればせながら体験しました。
給食のない時代にどうしていたかといえば、
それは弁当です。
小学、中学、高校と12年間も弁当持参。
学校で弁当を食べる時間というのはどくとくで、
待ち遠しいけれども、なんとなく恥ずかしい時間でもあり、
みんな割と無口で、
ほかから見られないよう隠し気味にしながら食べていたように記憶しています。
あれ、なんだったんでしょうね。
わたしの小学時代の弁当のおもなおかずといえば、
輪切りにしたイカの醬油煮。
おかずはほかにもあったはずなのに、
イカの醬油煮が圧倒的に記憶に残っています。
なんてぜいたくでわがままなことを、と、いまでこそ思うのですが、
当時は、
「またイカの醬油煮か」と勝手なことを思ったもの。
醤油がごはんのほうへ染み出したり、イカが白っぽく変色しているのも、
なんとなく見栄えがよくない気がした。
そこへいくと、Kくんの弁当の色鮮やかなことといったら!
四角い弁当の全面に炒り卵が敷きつめられ。
いいなぁ、おいしそうだなぁ。
ほかのひとはどうかな?
キョロキョロと。
目についたのはYくん(「さまざまのこと 1」に登場したYくんとは別)の弁当。
焼きサバが、でん!とごはんのうえに載っていた。ど迫力。
見ればYくん、
弁当の前で正しく身を固くしているよう。
みんな、口にはしなくても、
いろいろなことを感じ、思っていたんじゃないかな。
ちなみに、わたしはといえば、
勝手でふとどきなことを思いはしても、
白茶けたイカの醬油煮を、その都度おいしくいただき、
家に帰って、弁当のおかずのことで、
母や祖母に注文を付けたことはありません。

 

・春の風ものみな右に靡くかな  野衾

 

さまざまのこと 6

 

子どものころ、昆虫にハマりました。本を読まない子どもだったのに、
子ども向けの『ファーブル昆虫記』
だけは学校の図書室から借り出したことがあります。
家に持って帰って読みましたが、さいごまで読んだ記憶がありません。
夏休みになると、昆虫採集に出かけました。
弟といっしょに、あっちこっちさがし歩きました。
真夏の暑いなか、
さんさんと照る日差しを浴びながら、
川べりに立つ木々のもとへ歩み入り、そっと幹の肌を見つめます。
あ。いる!
クワガタムシはけっこう採った気がします。
ミヤマクワガタが多かったような。
バッファローの角みたいなのがあるノコギリクワガタは少なかった、かな。
カブトムシは、小さいのやメスは手に入っても、
大きなオスのカブトムシは珍しかった。
そういうことを学校で話したら、
Mくんが、
じぶんのところには、大きなカブトムシがいっぱいいるよ、と自慢げに話しだした。
えー、そうなの、いいなぁ。
というわけで、
学校の帰りに、わが家とは反対の方角、Mくんの家を訪ねたら、
大きなカブトムシがいるわいるわ、
カブトムシの大軍団。
Mくん、気前よくぼくに一匹分けてくれました。
二匹だったかもしれない。
成虫を採集するだけでなく、幼虫から飼いはじめ成虫まで育てるなど、
昆虫熱はしばらくつづきました。
完訳版の『ファーブル昆虫記』を読んだのは、
春風社をはじめてからのこと。
なつかしさもありましたけど、それよりも、
ファーブルさんの人生が味わいぶかく描かれており、
ダーウィンさんとの交流をふくめ、
こういう本であったのか、
と、新鮮な驚きがありました。

 

・花曇りうす紫の故郷かな  野衾

 

さまざまのこと 5

 

ふるさと秋田のわたしの実家がある場所は仲台(なかだい)といいます。
徒歩でかよった小学校までは3キロほどあったでしょうか。六年間、
一日も休まずよくかよったものだと今にして思います。
体調が悪い日もあったはずなのに、親も祖父母も、休ませてくれませんでしたし、
わたしも、どんなことがあっても学校には行くもの、
ということが、いつの間にか、
刷り込まれていたと思います。
仲台から小学校までは3キロほどですが、
町(当時は村)の一番奥に、大台(おおだい)という集落がありまして、
大台から小学校までは、5~6キロはあるでしょうか。
当時は、みんな歩いて学校にかよっていましたから、
大台の子供たちは、
往復だと、10キロを超える距離を連日歩いていたことになります。
そのことの成果というか効果というか、が如実に表れるのは運動会でした。
長距離走の上位を占めるのは、
ほとんどが大台の子供たちでした。そりゃそうだろう、
と思いましたね。
とくにそのための運動をしなくても、まいにち学校へかようことが、
そのまま長距離走の練習になっているわけですから。
仲台の子が、大台の子に敵うわけがありません。
月のはじめに発行される町の広報誌がありまして、
わたしはパソコンで読むのを毎月たのしみにしていますが、
その担当の方が大台在住であることを編集後記に記していました。
なつかしくなって、
大台の子供たちのことを思い出しました。

 

・花曇り耳目の奥にある故郷  野衾

 

さまざまのこと 4

 

へんな外国語で歌っては、じぶんでケラケラ笑うTくんのことも忘れられない。
なんだかとってもおもしろかったなぁ。
小学生(あるいは中学入学後すぐ)のこととて、まだ英語を習う前だし、
たしかめたわけでないから、なんともいえないけど、
スマホやパソコンのない時代のことでもあり、
Tくんがちゃんとした外国語をおぼえ歌っていたとも思えない。
(ちがっていたらゴメンねTくん)
だけど、
わたし自身、もとの歌を聴いたことがないのに、
その歌を歌う外国人がちゃんといて、
きっと、Tくんのような歌い方をするのだろうなぁと勝手に信じていた。
Tくんは、そのころのぼくのヒーローでした。
だれの、なんというタイトルの歌だったのか、そんなことはどうでもよく、
ふんいきをつかむのがとてもうまかったのだと思います。
クラスのエンターテイナー。
ずっと後になって、ある歌を聴いたとき、あっ!と思いました。
鳥肌が立った。
Tくんの歌っていた歌は、
トム・ジョーンズさんのラブ・ミー・トゥナイトでした。
歌詞はともかく、歌のふんいきは、
あのころのTくんそのもの。
すごいなぁ、すごいなぁ、と思いました。

 

・なつかしき桜蕊降る道の奥  野衾

 

さまざまのこと 3

 

小学生のときに、同じクラスにSさんという、運動の得意な女子がいました。
教室ではふつう、とくに目立っていた印象はありませんが、
体育館、運動場においてとなると、逆に、
目立たないことがなかった。
クラスの花形。
それぐらい、Sさんの運動能力は高かったと思います。
忘れられないのは、ドッジボール。
だいたいさいごまで四角の枠のなかに残っていた気がします。
それと、あ!
これはさすがに避けられないだろうと思われる、
速いボールがSさん目がけて投げられると、
Sさん、
からだを「く」の字に折り曲げ、からだ全体でボールを受けとめます。おみごと!
すごいなぁ。脚も速かった。
あれは、高学年になってからだったと記憶していますが、
100メートル走のタイムを計る機会がありました。
女子で16秒を切ったのは、Sさんだけ。15秒7だったと思います。
運動場や体育館のSさんのすがたは、
まさにキラキラ輝いていて、
すぐそばでオリンピックのアスリートを見る(見たことないけど)
ようなものでした。
Sさんが歌もうまいと知ったのは、
それからずっと後のことです。

 

・山彦を海まで招く新樹光  野衾