伝記が好きで、いろいろ読んできましたが、伝記でとり上げられる人物を
ひとつの山にたとえてみると、
記述の仕方には大きく分けてふたつあるような気がします。
ひとつは、ドローンを飛ばし、山ぜんたいの姿を俯瞰して眺めるというもの。
もうひとつは、登るのにふさわしい靴を履き、
一歩一歩みずからあるき、その都度、
見えてくる風景を楽しみながら、
あるき始めた地点から現在地点までの距離と時間を確かめるようにし、
いわば山を経験するというもの。
今回とり上げるジャン・ゲーノさんの『ジャン=ジャック・ルソー伝』は、
ふたつめの記述の仕方かと思います。
1941年、作家たちがあの奴隷状態を強いられた悲しむべき空白の時間のなかで、
私はだれか偉大な伴侶、断じて降伏しない人間を探し求めていた。
われわれの周囲には嘘つきしかいなかった。
私はふたたびルソーのことを考えた。
ふたたび書簡集を手にとってみたが、
このときはなんらはっきりとした意志もなく、
この日々の仕事が私をどこへ連れて行くものか、自分でもよくわからないまま、
ジャン=ジャックといっしょに生活するようになっていた。
あの暗い、無気力におちいっていた日々に、
われわれの支えとなるものはわれわれ自身の誇りである、
とジャン=ジャックは教えてくれた。
彼は傲慢ではなかったが、全生涯を通して誇り高く生きた。
彼には自分の悲惨も、自分の卑劣さもわかっていた。
だがまた、
どんな人にも各々にそれはあり、また、
たとえそれがどんなに数多く、大きなものであっても、
その悲惨や卑劣を意識すること自体が、
まさしくわれわれを人間たらしめていることなのだ、ということも彼は知っていた。
多くの仕事をし、その時代のもっとも奇妙な、
そしてもっともみごとな書物を出したあとで、
彼は自分の本当の肩書はそこにはなく、
ただ自分がなんであるにせよ、ひたすら自分自身であったことだ、
と宣言しているのである。
ジャン=ジャックは私を名誉への道にひきとめてくれるだろう。
私はふたたび引き出しを開け、書類をひもといた。
私はいつでも愉しんでこれを手にとれるようにした。
(ジャン・ゲーノ[著]宮ヶ谷徳三・川合清隆[訳]
『ルソー全集 別巻1 ジャン=ジャック・ルソー伝』白水社、1981年、p.13)
1941年といえば、第二次世界大戦がすでに勃発し、パリもドイツ軍による占領
が始まっていました。
この本の原著は、1962年に刊行されていますから、
ゲーノさんは、
戦争の体験をふまえてこれをまとめられたのでしょう。
ルソーさんに興味関心があるというだけでなく、
戦争の暗い時間のなかで、
「人間とは何か」の切実な問いをみずからに発していたのだと思います。
この本を読みながら、
やはり第二次世界大戦の戦時下でつくられたフランス映画の傑作『天井桟敷の人々』
を思い出しました。
映画のなかのどの人も、誇り高く生きていました。
・道道ぱんぱでーよ自転車の春 野衾