ゲーノさんの『ルソー伝』からそろそろ離れようと思います。
われわれが二人いっしょに、奇妙な、ときには幻想的な親密さのなかで暮らすように
なってから、かれこれ十年の月日がたつ。
私は彼に無礼を詫びたいほどの好奇心、あつかましさ、苛酷さで、
彼のすべてを眺め、すべてをほじくりかえした。
というのも、私はなにもかも知りたかったからだ。
それ以来、
私には自分の人生より彼の人生のほうがはるかによくわかるようになった。
人には自分自身の人生はわからないものだ。
あるいは少なくとも、
われわれのうちのなにかがつねに知られることを拒むのである。
私は彼の内部で生きることができた。
それも、すべてが混じり合い、誠実が偽善に変わるのが見えるあの深み、
自分が問題の場合には、
人が見つめたがらないあの深みにおいて。
このおそらくは無謀な企てを手がけるにあたって、
私のいだいた野心の一つは、要するに、人間とはなにかを知ることであった。
いまでは私は、
まえよりいくらかよく人間のことがわかるようになったと思う。
われわれはたえず虚栄心、利害心、自己保存の本能によって欺かれるため、
自分自身から出発しては人間のことはわからない。
しかし、
だれか他人の人生を愛情と厳しさをもって見つめるならば、
やがてはいくらかわかるようになる。
まして相手が自分自身について冗舌であって、
彼の人生のさまざまな情況が彼に関する多くの資料を積みあげた場合には。
(ジャン・ゲーノ[著]宮ヶ谷徳三・川合清隆[訳]
『ルソー全集 別巻1 ジャン=ジャック・ルソー伝』白水社、1981年、p.675)
じぶんも人間の端くれなのに、じぶんでじぶんを知ることはむずかしい。
人間を知ることは、ほとほとむずかしいようです。
いつ、何をしたかをこまかく並べても、
それ(はだいじなことですが)だけでその人間を知る
ことにはなりません。
こころの問題がありますので。
教育哲学者の林竹二さんの本に『若く美しくなったソクラテス』
があります。
ソクラテスについて、いろいろな人が書いているけれども、
わたしが問題にしたいのは、
他の人でなくプラトンにとってのソクラテスなのだ、
ということを林さんは述べていますけれど、
ゲーノさんの『ルソー伝』(原題:ジャン=ジャック)は、
『若く美しくなったソクラテス』をほうふつとさせる、
愛情と厳しさをもった伝記であると思いました。
・何事も早口になる新学期 野衾