ゲーノさんがどうしてジャン=ジャック・ルソーさんの伝記を書こうとしたのか、
それについて、はっきりと記された箇所があります。
翌朝になると私はまた彼に出会っていた。私は謎につきあわされていた。
歳月が流れ去った。
たえず人を裁いていては、人といっしょに暮らすことはできない。
ところが、困ったことに彼のほうがどうしても裁いてほしいと言うのである。
われわれのたどりついた1760年代、
彼はこの時代から、
けっして開かれることのない訴訟の被告人として裁きを要求し続けている
のである。
彼は無罪放免か、さもなくばまったき有罪を請求している。
早く決めろと、彼はわれわれをせかしている。
ドストエフスキーの主人公であった彼は、いまやカフカの主人公である。
けれど私は人を裁く性癖などなくしてしまった。
私には理解すれば十分である。
しかし、この男のすべてを理解することなどけっしてできはしない
ということも私にはわかっている。
おもしろいことに、彼は、聖者を別にすれば、
人々がその姓よりむしろ名によってジャン=ジャックと呼びならし、
彼を自分たちの身近な存在にしようとした、思想史全体を通じて唯一の人物である。
どんな理由から私がこの本の標題〔本書の原題は『ジャン=ジャック』〕
を選んだかも、これではっきりした。
私が書きたかったのは、「ルソー」ではなく、
あくまで「ジャン=ジャック」である。
彼の時代の人たちがその名をリフレインにして歌った、
あの同じ皮肉の入りまじった、
そしてわれわれがだれかある他人のうちにもう一人の自分を見出すときに感じる
あの親しみのこもった「ジャン=ジャック」である。
文学者、政治理論家のルソーという問題が別にあるが、
私がもっとも心をくだいたのはこの点ではない。
ジャン=ジャックが私の興味をひくのは、
ほかならぬ、
彼が作家でありたいと思っていなかった、別の言い方をすれば、
心ならずも作家であったからである。
万人と同様、彼も一人の哀れで偉大な人間であった。
そしてまさに、
彼は彼のうちのこの玉石混交によって、
われわれのもっとも真正な証人の一人となったのである。
私が明らかにしたかったのは、その彼の証言である。
多くの悲惨とともにいかにして偉大さは形成されるものか、私はそれを
彼のうちに確かめることができると考えていた。
(ジャン・ゲーノ[著]宮ヶ谷徳三・川合清隆[訳]
『ルソー全集 別巻1 ジャン=ジャック・ルソー伝』白水社、1981年、pp.405-406)
じぶんのことは、じぶんがいちばん分かっているようでいて、
けしてそんなことはないようです。
だれか気になる人を見、声をかけ、じっくりつきあうことで、その人を鏡にして、
じぶんが、さらに人間が見えてくる、
ということがあるかもしれない。
ゲーノさんにとってのジャン=ジャック・ルソーさんは、
まさにそういう人だったのだと思います。
・花曇り眼下無音の高速道 野衾