ルソーさんという高山を一歩一歩、
足下をたしかめながら歩くように記述するゲーノさんですが、
書いて思索しているうちに、
ルソーさんがゲーノさんにのり移るかのように、
どちらが主体でどちらが客体なのか、混然となってしまうようです。
自分に対する批判からかえって自分自身への啓示を受け、
反対論から自己流の深い夢想にふけりこむ――ルソーはそんな型の人間であった。
反論は自分を修正するのではなく、
むしろ自分自身を乗り越えるように仕向け、
思考のなかでは、
まだ達していない領域にまで彼をつき進ませるのである。
反論は彼自身のなかにあった一種の熱狂的論証意欲をよび起こし、
解き放してしまうのだ。
ただ彼は、
その構築物を少しばかり高く造りすぎて、
反論者に近づき難くしてしまったのだ。
人々は黄金時代の空想という言葉を彼の頭に投げつけて困らせようと考えていた。
空想と名づけたのはまことに当を得ていた。
空想!
ところがこの空想ほど彼の好きなものはなかった。
彼は空想の人なのである。
彼の思考に対して素晴らしい枠組が与えられたのだ。これで決まった。
「人間は生まれながらにして善である。」
さらにつけ加えて
「私は一つの教えの新参者のようにそう信じ、そう自覚する幸せを感じている」
と言う。
世界の幼年期を考え直してみるということは、
彼のような純粋な型の人々にしかできないことであった。
(ジャン・ゲーノ[著]宮ヶ谷徳三・川合清隆[訳]
『ルソー全集 別巻1 ジャン=ジャック・ルソー伝』白水社、1981年、p.226)
岩波文庫で『エミール』を読んだのは、22、3歳ごろだったと思います。
ニンゲンの善性をとことん信じるありかたに感動を覚えたのは、
その後の教師生活に少なからず影響を与えていたかもしれません。
ニンゲンの善性を信じ、希望を持たないことには
教育という営みは成立しないのではないかとも思います。
・直角に教科書かさね新学期 野衾